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人ならざるモノの意志:『新世紀エヴァンゲリオン』について

 先日友人から聞いた話。日本人のキリスト教信仰にはある特徴が目立っているとのことで、いわゆるご利益を求めてしまうところが日本人の信仰の弱さだと彼は語っていた。彼に教えを授けた(?)聖職者は南米の出身者らしく──南米のキリスト教信仰はそれはそれで元々のキリスト教のかたちと大きく違うとは思うが──神という絶対者を前にすると自分自身がどのように惨めであろうが困窮していようが、信仰以外の選択肢はない、という気概があるとのことだ。だから日本人が神仏に対してご利益を求める態度はキリスト教とは本来相容れないということである。
 この説がどのくらい当を得ているのかはっきりとはわからない。それはそれとして、人間ではない何かを前に立てて人間の意志を否定するという構図が『新世紀エヴァンゲリオン』に見出されるという話を今日はしたい。俺はかねてから、なぜ『エヴァ』という作品においてキリスト教からの引用が多用されているのか不思議であった。いや、むしろキリスト教そのものというよりは、キリスト教に関係している周辺のものからの引用が多いと言ったほうが正確なのだが、その詳細は後述する。ある時期まで俺は、『エヴァ』というのは使徒という敵のデザインからSFの趣向に至るまで透明なトーンを強調する向きのある作品だから、日本人がキリスト教というか西洋文化というもの全般へ漠然と抱く清潔なイメージをなんとなくあてがっているのかな、という程度になんとなく納得していた。もちろん、このアイディアは軽率な決めつけであって、何らの説得力を持たない。一方で、「意志の否定」というモチーフを補助線として読み解くと、『エヴァ』という作品にちりばめられた様々な表現が、まったく腑に落ちたように、明瞭な図として捉えられるように思えてきたのだ。
 この論は『エヴァ』の素直な読み解き方とは逆行しているように思える。エヴァンゲリオン初号機という謎めいた機体に関して、「ただのコピーとは違うわ。人の意志がこめられているもの」と語る第21話(作中の表記では弐拾壱話だが読みやすさの観点からこの記事では算用数字で表記する。セリフの表記は絵コンテ集に準拠、以下同じ)のセリフに代表される通り、人間の意志によって状況を打開するというテーマは作中で何度も語られるものである。他では、第2話の「使徒に勝つつもり?」「あら、希望的観測は、人が生きていくための必需品よ」というやりとりなどが挙げられるだろう。つまり、人類を滅ぼさんとする敵に勝つというロボットアニメとして当たり前の筋書きが述べられているのだが、結果としてエヴァンゲリオンという存在に関わった人々は、作中をみる限りほとんど全員が不幸になっている。
 ここで念のため注意しておきたいのだが、俺は決して劇場アニメ『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』四部作について言及しているのではない。意志の否定という読み解きは、1995年から1996年にかけてテレビで放映されたアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』およびその完結編である劇場版『Air / まごころを、君に』についての評であるとここで一応断っておく。『新劇場版』はむしろ、意志の否定どころか意志の肯定をモチーフとしていたとみなすのが妥当だろう。先に言っておくが、この記事は『新劇場版』に感動したという方にはかなりの解釈違いとなるものであろうことを注意してほしい。それから、ネタバレの類も自重しないので、その点もご注意いただきたい。

TV版放映終了後当時の「エヴァブーム」最中に出た「エヴァ本」の中でも重要なインタビュー本。絶版だが、kindle などで今でも読める

 さて、使徒を倒すという結果が、果たして人の意志によるものかというとそれは微妙なところである。主人公である碇シンジの乗ったエヴァンゲリオン初号機は、2話で初めて使徒を倒すものの、それは彼の意志によるものではなく操作不能に陥った末に初号機が暴走した結果であって、またその暴れるさまもどこか妖怪というか鬼神じみており人間の意志を離れて動いている様子がことさらに強調されているかのようだ。初号機が碇シンジの操縦なしに自ら動いて使徒を倒すのはこれにとどまらず、16話で使徒の黒い影を引き裂き血の雨を降らせながら現れる姿は弐号機のパイロット・惣流アスカを戦慄させ、19話で獣のごとく四つん這いになって使徒を食いちぎり飲み込む初号機はエヴァを管理するネルフの職員を絶句させた。
 19話については特に意志の否定というモチーフが徹底されている。冒頭、友人である鈴原トウジが瀕死に追い込まれたことへ激怒したシンジは、ネルフの指令である父・碇ゲンドウに歯向かってネルフ全体を恫喝するが、結局彼は初号機のコックピットから排除され拘束される。父の眼前へ連行されたシンジはパイロットを辞めると宣言するも、逃げ出した先で使徒に倒される零号機と弐号機の姿を目にし、大人に諭されてもう一度初号機に乗る。そしてなんとか使徒を追い詰めるも、初号機の内臓電源が切れてまたしても戦闘不能となり、追い詰められた結果エヴァ初号機が暴走する、という流れで使徒は倒される。
 この19話に出てきた使徒が直前の次回予告で「最強の使徒」と称された通り、テレビアニメ内ではここが最も盛り上がる戦闘シーンであった。しかし本来主人公として最大の見せ場となるはずのこのエピソードでシンジは、ネルフへの恫喝・パイロットを辞めようとする・使徒を倒そうとする、の計三回の場面で試みをくじかれている。意志の否定というモチーフはここで大きく象徴されており、その流れは最初の使徒と戦った時から一貫している。一応、全26話あるうち中盤7~15話においてはその傾向は薄まるが、この過渡期を挟みつつも終盤に向けて物語のトーンは当初のそれへと回帰していく。
 22話でアスカの心をもてあそんだ使徒にアスカの攻撃は一切届くことなく、最終的に綾波レイの搭乗した零号機が「ロンギヌスの槍」を投擲し、それが使徒を貫いてあっけなく戦闘は終わる。槍が使徒の張ったATフィールドを破る瞬間、その先端がまるで生き物のように広がるシーンは示唆的だ。つまり、槍という生きていないはずのものが、生きた意志を持ったように振る舞って、人間の意志を超越するということである。そして、24話でシンジが最後の使徒を倒した行為が、彼の意志によるものとは到底言えないことは明らかだろう。
 エヴァの暴走に関して言えば、多少異論の余地はある。確かに、エヴァ初号機という機体に碇ユイという人間の魂が宿っていて、エヴァという存在が果たすべき目標がユイの意志そのものであったことは確かなのだから、ユイはこの上なく見事に意志を実現したこととなる。しかし、劇中でユイが人間らしい存在として描かれたかというと、まったくもってそんなことはなく、むしろ断片的に映される彼女の姿はあまりに超然としていて人間味が欠落していたとすら言えるのも事実ではないか。
『新世紀エヴァンゲリオン』が人の意志に対して否定的なのはストーリー展開だけではない。演出やセリフ回しといった各種の表現にもそのニュアンスは徹底している。新劇場版との差はこの点でも顕著だ。特に目についた差は、ネルフ本部のモニター表示が新劇場版ではことごとく漢字表記になっている点だ。近年コンビニに並んでいるエヴァグッズはすべて新しいほうの表記に従っているようである。実はテレビ版ではモニターに日本語の表記は極めて少なく、英語がほぼ全てだ。テレビアニメ本放送時は、日本ではパソコンがようやく家庭に置かれるようになったころで、モニターの英語表記というと機械の言葉としてのイメージが強く、人間の話す言葉とは離れたものという印象を与えている。この論はこじつけに聞こえるだろうか?
 しかし同じような表現は他にもある。19話に話を戻すと、本部に侵入した最強の使徒をシンジは初号機で無理やり押しやって、エヴァンゲリオンの機体射出口まで追い込む。そこでシンジの呼びかけに対し、ネルフの作戦部長である葛城ミサトは使徒を抱えた初号機を地上へ射出するよう命令する。このセリフがテレビ版では「5番射出急いで!」である一方で、ほぼ全く同じシーンが流用された新劇場版では「固定ロック、全部外して!」になっている。この変更は一体何だろうか? 特に理由もないなら変えないで済ませる手もあっただろうが、むしろここでは「5番」という具体的な射出レーンの番号を言わないところにこそ『新劇場版』らしさがあると俺は思う。「固定ロック、全部外して!」という言い回しはむしろ、追い詰められたときに正確な判断ができず、あいまいな言い方をしてしまうという意味で人間らしい。そして付言すると、ミサトはロックを外すよう言っただけで射出まで命じてはいないのだから、新劇場版では射出はシンジの意志と取るのが自然だろう。逆にテレビ版では、「5番」という無機質な正確さが際立っている。
 テレビ版を全編にわたってよく観返してみると、どれだけ追い詰められていても、ネルフ本部の人間の言葉は常に厳密で正確なのだ。使徒の出す「パターン青」なる波長、エヴァンゲリオンとパイロットのシンクロ率や「8.7%(6話)」という作戦成功率などの数値、作戦名「A-17(10話)」など様々な事柄に振られた番号。機械の提示する情報を読み、機械のような言葉で彼らは作戦を進めていく。そしてこれは語り草だが、ネルフ本部のオペレーターはことあるごとに「ダメです!」と失敗を宣言するのだ。やろうとしても何もうまくいかない。この繰り返しが『エヴァンゲリオン』らしさであると俺は思う。

 人の意志の前に立ちはだかる絶対者、というモチーフの話からこの記事は始まったのだった。やはり改めて考えると、エヴァがキリスト教からの引用が多いという認識にはいささかの誤り、というか語弊がある。オープニングで現れるクリフォトとセフィロトの図画、知恵の木の実と生命の木の実という概念、リリス・リリンという悪魔からとられた名称、これらは実はユダヤ教のものだ。俺が短絡的に『エヴァ』とキリスト教を紐付けしていただけかもしれないが、しかし使徒が出す光線などが十字架の形をしていることはどうしてもキリスト教のアイコンを想起させるものである。先述のロンギヌスの槍にしてもキリストの死にまつわるアイテムだ。エヴァンゲリオンという名の由来となった「福音」だって、ユダヤ教というよりキリスト教の概念である(一応言い添えると、『福音書』は新約聖書の一部であり、キリスト教の聖典であってユダヤ教の聖典ではない)。
 このあたりの混乱をどう読み取ったらいいのかが不明、というか設定を雑に作っている感すらあるのだが、しかしこれだけは言える。キリストは救世主であって、そして救いというテーマを素直に描こうという作風は『新世紀エヴァンゲリオン』にはない。そして救世主と呼ぶべき存在があるとすれば、あの化け物じみたエヴァンゲリオンの機体である。だからキリスト教の概念をそのままなぞるより、その周辺からアイテムを取って来て引用したと考えたほうがまだ納得がいく。何度か言及される死海文書も、正当なキリスト教の聖典とは言い難いものである。
 さて、意志の否定、というモチーフと関連するものとして、ユダヤ教の聖典である旧約聖書にはそれなりの頻度で「理不尽な神」というモチーフが頻繁に現れる。『ヨブ記』はその典型ともいえるエピソードである。一点の曇りもない清い心を持ったヨブの信仰に疑いを持ったサタンは、不幸な状況に陥ればヨブも信仰を放棄するだろうと神を挑発する。神はヨブの信仰が本物だと知っているが、なんと神はここで、サタンがヨブを苦しめているのを傍観し続ける。サタンの魔の手によってヨブは家族と死別し、家財を失い、自身も深甚な疫病にあえぐこととなる。ヨブを見舞った友人たちは、彼の受難がきっと彼の犯した罪へ与えられた罰なのだから懺悔するべきだと勧める。しかしヨブは自らの潔白を知っているので、友人の勧告を退ける。
 苦しみの中、ヨブが妻に向けた言葉がある。「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」。つまりヨブは、神という絶対者に身を預ける覚悟を貫いている。そして物語の結末で、神は先述したヨブの友人に怒りを向けることとなる。その理由は、ヨブを正しいものとみなさなかったことにあるのだ。
『ヨブ記』は旧約聖書の中でも際立ってこの種の理不尽さが目立つものであるが、旧約聖書の中で他に「理不尽な神」の類のエピソードは他にも数多くある。群衆を率いて救いの地を目指したモーセが、水を吐き出すように岩へ命じるよう神から指示されたのを、自分勝手な群衆への不満に任せて岩を杖で二回打ったために神から罰されるという話はいい例だろう。預言者としての使命を与えられたモーセは、艱難辛苦に耐えて神の導きのまま約束の地を目指していたのに、「岩に水を出せと命じる」のに「杖で二回打つ」という動作を加えただけで、約束の地へ足を踏み入れられなくなってしまう(さらに言えば、この前にもモーセが神の指示に従って岩から水を出させたことがあったが、このときは「杖で打て」と指示されている。前回も杖で打ったのだから今回もそうだろうと思うのは自然なことだろう)。
 話の焦点が見えにくくなったので、もう一度振り返っておく。『新世紀エヴァンゲリオン』は、人間を超越したものによって、人間の意志が否定されるというモチーフを繰り返している。そしてそれを補強しているのが宗教からの引用、神という絶対者を前になすすべのない人間という構図である。
 先ほどのユイの例と微妙に重なるのが、『Air』でリツコの指示に抗って本部の自爆を否決したスーパーコンピューターのMAGI・カスパーである。三つに分かれたMAGIの機体にはそれぞれ、エヴァの開発者である赤木リツコの母親の人格の異なる側面が移植されている。13話で、MAGIに内蔵された生体部品を露出させた赤木リツコが「言ってみればこれは……かあさんの脳みそそのものなのよ」と言う通り、金属の厚い防御を開いた内側には脳そのものが入っていた。その脳の一つが、最終話でリツコが碇ゲンドウと心中するために本部を自爆させようとするのを否定したのだ。母親の人格のうち女としての側面を持ったカスパーに裏切られたリツコは、「母さんは、娘より自分の男を選ぶのね」と嘆き、ゲンドウに眉間を撃ち抜かれて死ぬ。つまり、人間であって人間ではない側に位置するリツコの母親の女性性が、リツコという生きた人間の意志を凌駕したのだ。
 いまわの際にリツコが見たのが、人間と使徒の中間的存在である──つまり人間のようで人間でなく、そして人間らしい意志を持たず、碇ユイの生き写しとして描写された少女──綾波レイの姿であるというのは、強烈なまでの、人間の意志の否定といえる。人間に近いが人間を超えた強大な力を持った存在、というモチーフもまた『エヴァ』では頻発するものだ。それは初号機の中に入って人の形を捨てたユイにも当てはまるだろう。1話で初めてエヴァンゲリオンという機体が現れたときに「人造人間」と呼ばれるシーンや、5話で使徒の体が持つ信号パターンが人間の遺伝子と完全に一致していると示されるシーンは、改めて観直すと寒気すらしてしまう。

永瀬唯氏による2冊の「エヴァ本」。特に右側の『ザ・デイ・アフター・エヴァ』は全体的に納得感が高いが、惜しくも両者ともに絶版。惜しすぎる

 MAGIに自らの人格を遺して自死したリツコの母・赤木ナオコは生前、碇ゲンドウの愛人であった。そしてナオコ亡き後、今度はリツコがゲンドウの愛人となっていたのだが、撃たれる瞬間にリツコがゲンドウへ遺した言葉は「ウソつき」という悪態である。これに限らず、『新世紀エヴァンゲリオン』という作品全体の中で意志の否定の形としてもっとも目立つのは、なんと言っても他者とのわかり合えなさだ。18話でシンジは、一度は幼少期に離れ離れとなった父親のことがようやくわかるようになってきたと語る。それに対して投げかけられるセリフとは、「それは違うな。わかった気がするだけさ。人は他人を完全には理解できない。自分自身だってあやしいものさ。100%理解しあうのは不可能なんだよ」である。弱気な自分を克服して父親への強烈なトラウマを乗り越えつつあるシンジに対し、このセリフはもはや冷酷と言ってもいいほどのものだ。そのすぐ後に続く、「まあ、だからこそ人は自分を、他人を知ろうと努力する。だからおもしろいんだな、人生は」というセリフは、先ほどの冷酷さをカバ―するような妥当さで、いわばこれは大人の良識であり世間知だ。だがこのセリフの主である加持リョウジは21話終盤にてあえなく死んでしまう。
 この加持の死はなかなかに象徴的なものだ。葛城ミサトと加持は元恋人の関係から結局ヨリを戻すに至り、その過程で加持は比較的良好にミサトのことを理解したようなところに落ち着く。そして、この二人の関係こそ作中でおそらく最も人間同士のコミュニケーションとして信頼に満ちたものであるのに、結局それも加持の突然の死で幕を閉じるのだ。
 ヒロインでありパイロットとしてシンジのライバル──これは決して良き競争相手としてではなく、パイロットとしてのシンジへのまなざしは基本的に侮りか嫉妬による憤怒の二択である──である惣流アス力とシンジの通じ合わなさは苛烈そのものだ。作品終盤でそれはドメスティックバイオレンスの域にあったし、使徒からの精神攻撃を受けてエヴァを操縦する能力を失ったアスカはいったん廃人と化してシンジとのコミュニケーションは完全に不可能となる。このような破滅的な展開は、完結編の劇場版『Air / まごころを、君に』にて頂点を極める。「人類補完計画」が遂行された結果神に等しい能力を得た初号機の力によって、全人類はひとつの生命体に合一され、あらゆる人間を隔てる心の壁は消滅する。しかしいったんはその世界の心地よさに浴したシンジは、初号機の力によってその世界を否定し、彼は個人へと戻り、アスカとともに浜辺に打ち上げられる。この過程の映像スペクタクルは相当なものなのだが、その終盤にてシンジは「いつかは他人に裏切られるとしても、自分は彼らを好きだし、彼らに会いたいという気持ちは本物だ」との旨のことを宣言する。結果彼は彼個人の肉体と心を取り戻すのだが、なんとそう言ったハナから彼はアスカを絞殺しようとする。ここだけ切り取ればただのギャグにしか聞こえないが、そのくらいシンジの行動は極端だ。しかも結局アスカに手を差し伸べられて落ち着いたのか、殺害にも至らず、泣いているところに「気持ち悪い」との言葉を掛けられた瞬間映像は終幕を迎える。
 この意味は何だろうか? 様々な解釈が成立しうるとは思うが、コミュニケーションの不全と相互理解の不可能性、そして意志の否定という補助線をひけば、アスカの最後の言葉の意味するものとは、いったんは調子のいいことを言っても結局他人のことを受け入れられない口先だけの都合のよさを罵るものではないか。
「気持ち悪い」というセリフには有名なエピソードがある。もともとは、「あんたなんかに殺されるなんてまっぴらよ」で終わるはずだったのだが、いくらそれで演技を録音し直しても監督の庵野秀明がNGを出し続けたというものだ。何度も試行錯誤を重ね、ついにシンジ役の緒方恵美がアスカ役の宮村優子に馬乗りになって劇中と全く同じ体勢をとるにまで至ったというが、実は変更後のセリフ「気持ち悪い」はこの映画の冒頭のシーンに由来がある。病院で昏睡状態のアスカを前にしたシンジが、目を覚ましてほしいとアスカを揺り動かした拍子に胸がはだけてしまい、それを見ながらドアに鍵をかけて自慰行為をするというものだ。庵野は宮村に、上記のような場面で同じことをされたらどう思うか、と問い、「気持ち悪い」との答えを引き出したのである。
 これは一見たまたまこのような言葉が出てきたのようで、作風の一貫性の一部である。目の前にいる他人に接触することができないで行為を自己完結させるというのは、先ほど述べた、机上の空論じみた威勢のいい発言をしながら結局目の前のアスカを拒否するという点で一貫しているのである。24話でパイロットの少年・渚カヲルがつぶやいた、「一時的接触を極端にさけるね」というシンジの対人的態度は、結局なんら克服されなかったのである。
 思い返してみれば、ミサトと加持の会話を除いて、『新世紀エヴァンゲリオン』内で誰かと誰かの思いが通じたというべきシーンは、そのまま面と向かって話しているシーンとしてはほぼ皆無だ。あえてそれに近いものを挙げるなら、どちらかが一方的に怒りをまくしたててもう片方がそれをすごすごと受け入れるという体のものが多い。2話でシンジとミサトはほんの短い間だけ、明るく打ち解けたかのような会話をするものの、シンジが全裸で走り出てくるというコミカルなシーンすら彼なりの不器用な気遣いであり、ミサトの明るい振る舞いも茶番にすぎなかったこと、そしてお互いが相手の演技を見抜いていたことがその後の独白で判明する。そしてこういった遠慮もしくは悪態は、最終話に至るまで延々と続く。18話で加持の言った、「100%理解しあうのは不可能なんだ」という賢明で穏当な諦めの現実的態度とは程遠い、拙い会話不全がモチーフとしては一貫している。
 もちろん、ミサトと加持の二人以外で誰かの心持ちの深いところが作中でまったく明かされないということはない。しかしそれは、怒りを受け止めるという形以外では、基本的に何か超越的なイメージの中で起こるもので、人間が人間の力によって誰かの意思を解き明かしたとは到底言えないものばかりだ。16話で使徒の内部に取り込まれて自分対自分のサイコチックな内省のなかで父や母の姿を思い浮かべるシンジや、20話にて初号機の中でまた同じような回想にふけるシンジ、22話で使徒の精神攻撃によって過去のトラウマを明かされていくアスカ、23話で自分の姿に化けた使徒との対話で自らの空虚さを独白する綾波レイ、のように、いわゆるニューエイジSF的なイメージを通じて、超越的な場所で登場人物の内面は描かれる。常軌を逸した超常的な空間でしか他人とは通じ合えないというこの極端さは、現実で自分のそばに横たわるアスカを絞殺しようとしたシンジのそれと酷似している。
 しかし一方で、人間対人間が精神世界でない実際の生活世界で会話しているときには、もう眼をそむけたくなるほどに露悪的で嫌味ったらしいリアルなやりとりばかりが繰り返されるのだ。命令を聞いても使徒を撃退できず劣勢に陥ったあげく命令を無視して使徒を倒したことでミサトに叱責されて悪態をつくシンジ(4話)、想いを寄せる加持がミサトとヨリを戻したことに嫉妬して直前にキスしたシンジに八つ当たりするアスカ(15話)、シンクロ値でアスカを追い抜いて増長した末にアスカを挑発して結局使徒に飲み込まれるシンジ(16話)、トウジがパイロットになることに嫌悪感を隠さないアスカ(18話)、自分の作った初号機がシンジを飲み込んだことについて妥当な見解を述べつつも責任逃れをミサトになじられて殴られる赤木リツコ(20話)、綾波レイの自爆に際して生存者の確認を命じるミサトに対して「もしいたらの話ね」と毒づくリツコ(23話)、そして何より綾波の死を目撃して脱力するシンジを体で慰めようとして断られ、「女が怖いのかしら? いえ、人との触れ合いが怖いのね」と滅茶苦茶な決めつけをするミサト(23話)、などなど挙げればキリがなく、これ以外にも多数、具体的で生々しい不全な会話が『新世紀エヴァンゲリオン』には数多くある。
『新劇場版』で俺が不満だったのはまずこの点である。カヲルを自らの誤りから死に追いやって立ち直れないシンジに対し、大人になった鈴原トウジは、「滅んだ世界を再建するのに自分も後ろめたいことをしたことがある」との旨の発言を投げかけて奮起を促すのだが、このセリフの観念的な空々しさと言ったらない。あれほどにテレビ版では人間の嫌なところを具体的に、それもぱっと見て直感で共感してしまえる形で提示したにもかかわらず、上述したトウジのセリフはなんらの説得力も持たないまさしく机上の空論である。
 さらに終盤、独善的な計画に走った動機として、科学的知識だけを信頼し他人を信頼できなかったという内容の独白をする碇ゲンドウの姿があるが、まさにこれこそニューエイジSFの風景の中で起きていることであり、しかもやはり具体性を欠く抽象的な言葉に終始するのである。つまり、実感として納得できる対人関係の在り方として、人対人の対話の姿を結局庵野は想像できなかったということではないだろうか。これが皮肉として描かれているならともかく、エンディングのシーンをはじめ全体の流れを参照するに、対話の中で生を充実させていくというトーンが『新劇場版』のテーマなのである。しかしそれは少なくとも俺にとっては、あのテレビ版での徹底した露悪趣味には説得力の点で到底及ばなかったのだ。

『新世紀エヴァンゲリオン』という作品が世間の耳目を呼んだ理由の一つが、SF的な用語遣いにあることはよく知られている。それらは物理学・医学・工学・心理学に精神医学などといった様々な分野からの引用で成り立っている。そして登場人物、とくにエヴァンゲリオンという兵器を動かす人間たちはそれらの用語を流暢に喋り、それら科学的原理に従って自分たちが動いていることで作戦が進んでいくかのように彼らはふるまう。つまり、人の意志という、可能性からの恣意的選択とは真逆の科学的必然性が彼らの原動力であり、人間はそこに従属するものとして描かれるのだ。その意味で、エヴァンゲリオンの機体とパイロットが接続されるのが、人間でいう脊髄という中枢神経の場所に位置するコックピットで、機体とパイロットとのシンクロが脳のA10神経を介しているという設定は非常に示唆的である。決してA10神経が快感を味わうのに機能するとかいう脳科学の雑学が重要なのではない。脳神経科学という、我々の意志をつかさどる部分についての科学、すなわち自由意志の背景にある科学的原理によって、ロボットが敵を倒すというロボットアニメの最大の特徴が達成されるところに意味がある。すなわち、人間の意志を超越した科学的必然性という、意志のような恣意性を持たない現象が起こるがままに、敵を倒すという最も中心的なストーリーが展開されるということだ。人間の意志の働きを否定し、人間の意志ではない働きが目的を達成するという構図がここにも透けている。
『エヴァ』について語るべきところはいくらでもある。この文章はそのごく一部に焦点を当てたに過ぎない。しかし一方『エヴァ』において終始、精神分析というモチーフによって、トラウマと登場人物のゆがんだ心のつながり──すなわち、過去にこういうことがあったから彼らは意志疎通ができないということ──が描かれているのには、俺はまったくピンとこない。このことについてはまた機会を改めて述べようと思う。

追記:
 冒頭のほうで述べたとおり、ある面においての徹底的な透明さというのも『新世紀エヴァンゲリオン』の作風の特徴である。この点に関しては、慶応大学の名誉教授・山内志朗氏の著作『天使の記号学』がわかりやすく論じているので、あえて触れなかった。俺は『エヴァ』はキリスト教というよりはユダヤ教に親和性があるものとして捉えているようにこの記事で述べたが、グノーシス主義という異端の教義、および中世哲学の立場からはむしろキリスト教の道具立てでこそ『エヴァ』の透明性をよく読み解けるようである。俺は元々この『天使の記号学』という本をキリスト教哲学の本だと思って買ったのだが、最初のほうしばらくなんだか見覚えのある話が続くので変だなと思っていたら、突然「ここで思い起こされるのが、現代の症候群の象徴としての『新世紀エヴァンゲリオン』だ」なんて言い出すものだから椅子から転げ落ちそうになった(注:この本が単行本として世に出たのは2001年のことで、現在は文庫化されている)。学術界の大御所にも『エヴァ』のファンはいるのである。そういえば、テレビ版の放映が終わってまだ『Air / まごころを、君に』がまだ放映していなかったエヴァブームの最中、評論アンソロジー『エヴァンゲリオン快楽原則』の編集を担当した五十嵐太郎氏は、今では建築学の分野で東北大学大学院の教授になっているようだ。この本は俺を精神医学の道へ誘ったきっかけでもあるので、また別の機会で取り上げるかもしれない。
 ところで、ここまで読まれた方からすれば、俺が哲学や思想をはじめとしたいわゆる「人文系」の分野を摂取していることは納得しにくいことかもしれない。人の心の無力さを嘆くかの言を吐き、しかも脳科学を研究することを志しながら、なぜ科学的再現性や客観性の点で勝る自然科学に身を任せないのか、という疑問はもっともだと思う。俺もそういう自然科学を唯一至上とする考えを以前は持っていたからだ。しかし今考えるところとしては、人間の愚かさはそんなに簡単に自覚も克服もできないのであって、そのためには人文の想像力は必須であるということである。人間は人間でしかなく、そして人間の体験する人間は科学の形をしていない。われわれはどうしたって、科学に従属することすらできない存在なのである。俺はそう理解している。

6/26追記:
俺の小説『魚の名前は0120』が収録された本が今日、筑摩書房さまから発売されたようだ。読んでください。

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