災後、福島の学校・生徒が語るもの

 雑誌『教育』(教育科学研究会編集)2019年1月号の特集2は、「災前と災後の教育を考える」である。来週の雑誌『教育』を読む会で、学生たちと検討する予定である。

 年末、実家の福島に帰省した際に、サテライト校の演劇部に着目したテレビ番組の再放送があるのに気づく。ちょうど、特集と重なる内容であったので視聴してみた。以下の番組である。

第27回FNSドキュメンタリー大賞 ノミネート作品
サテライトの灯~消えゆく“母校”~

゛飯舘村から福島市に避難した飯舘校は、村民が通わなくなったために入学者が減少。倍率が低く入りやすい学校として、いつしか福島市などの中学生たちの新たな受け皿へと変わっていきました。
 演劇部の部長、菅野千那さんも福島市の出身。人間関係で悩み、中学校時代に不登校を経験。定時制高校への進学を考えていた時に、紹介されたのが飯舘校でした。「ここでやり直そうと決めた」と強い意志で歩みを進め、仲間たちと一緒に演劇に打ち込み、友達と一緒に、普通に学校に通うことができました。自分の居場所を見つけることができたのです。本来の設置の目的とは違うところで、思いがけず新たな可能性を持つことになったサテライト校。しかし、復興が進めば、学校が本来あるべき場所に戻ろうとすることは必然。大人たちの議論が進む中、飯舘校の生徒たちは人知れずそのことを受け入れていました。理想と現実のはざまで揺れ動く7年目の福島の現在地をサテライト校の今が、映し出していると感じました。福島の人も知らない福島の今が、ここにあると感じたのです。"

 戦後と災後を対照して考えるスタンスが、この間の論壇でしばしばとられてきた。たしかに、思い出の学校が「プレハブ」や「他校への間借り」という事態は戦後混乱期に子どもたちが置かれていた学びの状況と似ている。しかし、たとえ設備が貧しくとも、そこでの教育は生徒にとってかけがえのない希望の灯をともすものとなっていた―。

 福島の学校で今起きている現実は、全国各地でこれから起きる/すでに起きつつある事態を先取りしているといえる。震災前からすでに各地方では学校の統廃合(とくに県立高校の再編)をめぐる混迷が起きていた。相双地区では東日本震災によってその動きが加速することとなった。
 そういう状況下で、過渡的な形態としての「サテライト校」が災後の教育に遺したものをつかむという視点から、生徒たちの姿を追っていた番組であった。
 それは単に被災地の学校という固有の文脈を超えて、教育的価値という普遍的側面に関しても貴重な問題提起をしていると、自分は解釈した。

 「学校スタンダード」による「学力向上」(≒全国学力テストの成績向上)といった、一面的で貧しい発想で学校教育を捉えていては、これから来る事態に対応できない―。「サテライト校」での生徒たちの学びのようすはそれを示唆している。生徒たちが学校から疎外されることなく、先生や仲間との人格的なつながりを通じて、自分という人間を形成していく。単なる個人的な知識(3Rs)蓄積の場として学校があるのではなく、その前提として他者への配慮と関心とつながり(3Cs : care, concern,connection)が保障されることで、「生きることを学んでいく」。これは、J.マーチン『スクールホーム 〈ケア〉する学校』から学んだ部分だが、そういえば、マーチンのスクールホームでも演劇がカリキュラムの中心に位置づいていた。頭のなかでの無機質な記号的操作として「知識を学ぶ」ことを捉えるのではなく、人間として当然に抱く切実な感情(サテライト校の生徒の場合、消えゆく母校への思い)も無視することなく、総合的に「自分が直面している問題に向き合っていく」。その大事さを生徒たちの活躍は訴えていたように思う。

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