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「神即自然」を説いたスピノザ(1632から1677)

政治的迫害を逃れて、ポルトガルからオランダに逃れてきたユダヤ教徒の両親から生まれたスピノザ家は、アムステルダムのユダヤ系の裕福な商家であった。したがって、息子のバルッフ・スピノザはもともとユダヤ教やキリスト教にとらわれない立場を取り得ていた。

それよりも、若いスピノザの心をとられていたのは、「デカルト哲学」であった。デカルトはすでに述べてきたように、その生活や思索をほぼオランダで行っていたからでもある。

ユダヤ教団からは破門


デカルトの思索は、幾何学的精神を先立てて伝統的神学から見るなら、むしろ「無神論」の系譜に属しているものであった。このような立場に立ってのスピノザの初期の著作「デカルトの哲学原理」も、また、幾何学的方法を先頭に立ててのデカルトの思索を後付けるものであった。

このような思索を展開しようとしていたスピノザに対して、ユダヤ教団は、早々と破門を申し渡す。これは1つの事件ではあったが、キリスト教プロテスタントが主流を占める当時のオランダにあっては、何ほどのことでもなかった。ユダヤ教団からの破門状は、スピノザに対する憎しみに満ちていた。「彼は昼に呪われてあるべし、夜に呪われてあるべし、彼は寝るときに呪われてあるべし、起き出すときにも呪われてあるべし」と言うのである。

ユダヤ教団からの追放は、むしろスピノザを自由な身分にし、自由な国オランダの市民たらしめるはずであった。ところが、1670年に匿名で発表された「神学・政治論」では、オランダの主流であった「カルヴィニズム」(あのカルヴァンによって主張されたプロテスタントの主流派)に対する敵対的思想を展開する。このスピノザの考え方は「カルヴィニズム」に対する敵対思想というだけでなく、キリスト教そのものに対する異端的思想の展開でもあった。

このようなスピノザの考え方は、彼の主著でもある「エチカ」(1675年完成、しかし出版は彼の死後になってからのことである)に、よく示されている。

「エチカ」に見る2つの自然

「エチカ」とは「倫理学」のことであるが、スピノザがここで論じようとしたのは、狭い「倫理学」のことではなく、倫理学を基礎づける彼の形而上学が展開されている。その中で、特に有名な文言は「神即自然」という考え方であろう。西欧人にとって、「神は万物を生み出す原因」と考えられてきた。これに対して「自然」もまた万物を生み出してきている。したがって、スピノザにとって「自然」は、二通りに考えられる。つまり、あらゆるものを生み出す「能産的自然」と生み出された「所産的自然」との二通りの「自然」である。このことを彼は次のように述べている。

この文章は、「エチカ」第1部、定理29の注釈の部分である。つまり「能産的自然」を「神」と同列に置き、「神即自然」を説いたスピノザの根本的思想の部分である。

これまでの伝統的なキリスト教神学では「自然」は「神」によって生み出されたものであり「自然」を「神」と同列に置くなどという考え方が全く存在しなかった。もっとも、中世哲学で、一切のものを生み出す神は「能産的自然のようなものである」とする考え方があった。

しかし、スピノザの「エチカ」は、「のようなもの」ではなく、「自然」と「神」と全く同列に置いたのである。このような考え方は、17世紀当時にあっては、全くもって「涜神」的考え方そのものであった。したがって、スピノザも生前、この「エチカ」の出版をためらったのである。

しかし、やがて19世紀初頭、あのドイツロマン派の詩人たち、あるいは文人たち(この中には、あの文豪ゲーテもまた含まれている)が自然讃歌を歌いあげるにいたって、このスピノザの「神即自然」が高く評価されるようになる。

以上のような意味でも、スピノザは「近代的思考」の先駆者の一人であった、ということができるだろう。

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