左右

世の中が右傾化しているといわれていますね。ネトウヨとかいう言葉もかなりメジャーになりました。でも、その人達に『no war』とか言って、伝わると思ってるんでしょうか、それはネトサヨと言うのではないですか(これらの用語にイラっとした人達こんにちわ。こういったネトウヨとかネトサヨという1ワードをピックアップして持ち上げたり、叩いたりするのが現代のメディアであり、そこにはもう動物の威嚇音以上のコミュニケーション機能は無くなってしまっているのではないですか。)

日本に戦争や国防というリアリティがあった時代から現代の左翼思想や右翼思想が生まれたんだと思うのですが、対立するものたちはどんどん細かい思想のグラデーションに目をつけて批判しあうようになってゆく。微細な発言にさえ左的、右的発言の欠片を見つけたら徹底的に叩いていくという構造になっている。ワード単位での攻防。

なぜそうなるかというのは時間と共にそれぞれの思想にリアリティがなくなって、感情的になってゆくからで、対立そのものが主題になる。それで歴史が明確になったりすることはないわけです。本当に今それについて争うことなのか?貶め会うようなことか?その議論で現在の状況は変われるのか?保てるのか?

そういった考え方に違和感を覚えた人間はいままできっと、政治には口を出さないとか、中庸という考え方で静かにしてきたんだと思うのですが、きっとそろそろ、どちらも決まりきった構造の内側でリアリティも薄れていると考え出す人間が現れているのではないでしょうか。左翼のリアリティも、右翼のリアリティも失われているのに、その状態のまま『対立&共感ゲーム』をプレイしている構造そのものに問題があるのではないかということです。

この構造の問題点は情報の真偽問わずアクセス数と広告出費で検索ランク付けされてしまう現在のインターネットの問題点でもあるし、人間が集団で縄張り争いをする生物であるにもかかわらず、それを忘れ、個人的自由が尊重されていると錯覚させられる仕組みのなかで生きている故の根深い問題なのではないかとも思います。

科学と同じくして歴史は現実的であり主観的なもので、科学や歴史はこれまでと同じようにこれからも幾度となく覆されるはずです。個人でそれぞれの思想を突き詰めるために勉強するしかないのだなと思います。インターネットで調べても、その検索ワードからあなたの考えに則した答えがアルゴリズムによって割り出され、あなたの考えに則した答えがgoogleのトップヒットに上がるのです。

リアリティが無いことがマイナスだというように語られがちですが、リアリティがないことによる特権というものがあり、それは『客観的に捉えることができる』ことなはずです。しかしそこには『共感』という落とし穴もそこらじゅうに転がっている。

これは政治の話だけではないはずです。外側のレイヤーにいかないと、もう内側の対立では伸び代がないものが多いように感じる。人類の歴史はカウンターの歴史です。カウンターが愚かだとは思わない。もっと外側からカウンターをしたい、自分にとって本当にリアリティのあるカウンターをしたい。しかしその外側にいくにはなかなか時間がかかる。

やっぱり『各自』『導きだした答えの次を問うこと』ではないでしょうか。なるべく深い穴を掘りたい。

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