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【海外の街を歩く】ベルリンで食べたカリーブルスト

ドイツには2010年、2017年の2回旅行している。
1回目はツアー旅行でドイツ国内を巡るツアーで、2回目はハンザ同盟の都市に行きたいというテーマで特定の都市に滞在する個人旅行だった。

2回の旅行で必ず行った街がある。ベルリンだ。
なぜベルリンに行ったかというと、自分でも理由は良く分からない。
なんとなく首都を観たかったというところか。
ツアー旅行もベルリンが入っているツアーを敢えて選んでいる。
歴史好きが少し影響しているかもしれない。

ウンター・デン・リンデンとブランデンブルク門

ベルリンに行くと必ず訪れるところが何ヶ所かある。
その一つがウンター・デン・リンデンとブランデンブルク門だ。

ウンター・デン・リンデンは、ブランデンブルク門からプロイセン王宮までの短い通りだが、ドイツ語の意味する「菩提樹の下」の意味のとおり、菩提樹の並木道を満喫することができる通りだ。
菩提樹の並木道をブランデンブルク門まで歩くのが恒例になっている。

ブランデンブルク門はベルリンに14あった関税門の一つで、ミッテ区にある。
ベルリンの正門的な位置付けで、普仏戦争後のパレードやヒトラー50歳の誕生日を祝うパレードでも門を通過している。

現在の門は、1788年から3年間の建設工事を経て1791年8月6日に竣工している。古典主義様式の門で、高さ26m、幅65.5m、奥行き11mの砂岩で出来ている。

東西冷戦下では、門の前に「ベルリンの壁」が設けられたので錆びれたが、1989年のベルリンの壁崩壊により修復され、現在は観光ポイントになっている。

2017年に行った際には、ブランデンブルク門前のパリ広場に建つホテルの一つにも入ってロビーを見学した。
理由は、旅行の半年程前に観た宝塚歌劇の舞台「グランドホテル」のモデルになったホテルと聞いたからだった。
ロビーを歩き、舞台の場面を想像したりした。

ブランデンブルク門

チェックポイント・チャーリー

東西冷戦下の時代、ベルリンには東ベルリンからの人口流出を避けるため、「ベルリンの壁」が設けられていた。
2回の旅行で感じたのは、壁が確実に減っていること。
少しづつ冷戦の記憶が薄れているということか…。

チェックポイント・チャーリーは、東ベルリンと西ベルリンの境界線上に置かれていた国境検問所。西側諸国の外国人および外交官、軍の関係者が徒歩または自動車で通行するための検問所だったという。
再現された道路の中央に立つ検問所。東西冷戦下の一コマ。
当時をイメージするのが難しくなりつつある。

東ドイツ博物館

2017年に旅行した際に、東ドイツ博物館を見つけ、行ってみた。
東ドイツ博物館は、冷戦下の東ドイツの人々の暮らしぶりを再現した博物館。
2006年の開館以来、公的機関の支援を受けず、入場料収入のみによって運営されている博物館だという。
東ドイツの国産車トラバントや日常雑貨など興味深いものが色々展示されている。東ドイツ時代の民衆の生活を知ることが出来る貴重な情報だ。

東ドイツ時代の食卓の再現

ビールとカリーブルスト

ベルリンの中心地、ポツダム広場は東西冷戦下の時代には「ベルリンの壁」が設けられたため荒廃したが、壁崩壊とともにベルリンの中心地として急激に復興が進んだ地区だ。
ダイムラーやソニーが一等地に複合施設を建設したという。

2回のベルリン訪問の恒例は、ソニーセンターでビールカリーブルストで昼食兼夕食を取ること。
ツアー旅行でカリーブルストがベルリンで流行っていると聞き食べてみたくなり、毎回食べている。

太いソーセージカレーソースがかかったシンプルな食べもの。ポテトが添えられている。
一度目に行った際はザワークラフト(キャベツの漬物)も添えられていたような気がする。
物価の影響か…。

夕刻前の16時ぐらい。少し歩き疲れた体を休めながら食べる昼食兼夕食。
美味しく感じる。
ドイツを旅行してから好きになったビールも美味しく感じる。


東ドイツ首相用公用車。スウェーデン・ボルボ社製の264型。

(参考)ベルリンの概要

ドイツ北東部のベルリン・ブランデンブルク大都市圏地域の中心に位置する都市。市域人口は約370万人で、ドイツ最大の都市。
ベルリンが最初に文献に登場したのは13世紀のこと。
それ以後プロイセン王国(1701-1918)やドイツ帝国(1871-1918)など、常にドイツの首都であった都市。
東西連戦下では東ベルリンが東ドイツの首都だった。
現在はドイツ連邦共和国の首都。

人口:3,669,491人(2019年時点)
面積:891.85 km2

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