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【歴史小話】江戸時代の暦

江戸時代の町人の年収の計算を求める際に354日という日数が出てきた。
最初は記載ミスかと思ったのだが、調べてみると江戸時代の暦が関係することが分った。
裏を返せば、150年前は当たり前だったことが今は分からなくなっているということが、また一つ出てきたということで、江戸時代の暦を改めて調べてみた。

太陰太陽暦

江戸時代の暦は太陰太陽暦といって、月の運行によって1ヶ月の長さを決めていた。
月は平均29.53日で地球を1周することから、一ヶ月には大の月の30日と小の月の29日が存在した。
この暦では、月の満ち欠けの周期が基準に作られた暦の数え方になることから、新月は必ず1日で満月なら必ず15日となる。

太陰太陽暦の暦に従うと29.53日×12ヶ月で1年は354.36日となる。
しかし、地球が太陽の周りを公転する周期は365.24日のため、年間を通すと10.88日のずれが生じることになる。

閏月の存在

太陰太陽暦では、月の満ち欠けによる暦と季節変化のズレを調整するために閏月と呼ばれる余分な月を設けてていた。
太陰暦と太陽暦では、その差は3年でほぼ1か月に達する。その1か月を閏月にすることで、ズレを元に戻していた。
つまり、江戸時代までは、一年に13ヶ月目が存在する年があったのだ。

閏月の挿入の仕方は、各月の日付と二十四節気節気中気を一年12か月それぞれの月に割り当て、暦をそのまま使い続けることによって次第にずれが大きくなっていく。
そのずれで中気が本来割り当てられた月のうちに含まれなくなったとき、その月を閏月としたものとなる。
閏月の月名は、その前月の月名の前に「閏」を置いて呼称する。例えば「二月」の次に挿入される閏月は「閏二月」と呼ぶことになる。
また閏月が加わることにより、本来は一月に迎える立春を年末にを迎えるケースもあったそうだ(年内立春)。

なお、閏月を19年のあいだに7回加えると、ほぼ誤差なく暦を運用できることは古代から知られていたそうだ。

誰が暦を作ったのか?

ところで、日本で独自に暦が作られるようになったのは江戸時代のことで、それまでは中国唐代に作成された暦(宣明暦)を採用していたそうだ。
日本で最初に暦を作ったのは渋川春海(1639-1715)で、元の郭守敬らが作成した授時暦を研究し、天文現象の予測時刻を京都で起こる時刻に計算し直すなど、日本各地で行った観測結果とあわせて新暦を作成したそうだ。

春海は幕府に改暦を上申し、観測の結果、春海が作成した暦が宣明暦よりすぐれていることが実証され、1684年(貞享元年)10月29日、改暦の宣旨が下り、翌年から「貞享暦」として施行された。
江戸時代には、そのあと「宝暦の改暦」(1755年)、「寛政の改暦」(1798年)、「天保の改暦」(1844年)の全部で4回の改暦が行われたそうだ。
西洋の天文学を取り入れ、より精密な太陰太陽暦が作成されたという。

江戸時代のカレンダー

江戸時代の暦は、月の大小が毎年変化し、閏月も発生する複雑なものだったので、幕府の天文方が暦の計算を行い、南都奈良を根拠地とした陰陽道を家業とする幸徳井(こうとくい)家が暦注を付け加え、各地の出版元から暦が出版されていたそうだ。

日本の暦は1873年(明治5年)、太陰太陽暦(天保暦)から太陽暦(グレゴリオ暦)に切替わった。
最後の閏月はその二年前の明治3年だったそうだ。

150年前は常識だった大の月、小の月や閏月などの太陰太陽暦
過去のものとなり、今やほとんどの人に知られなくなったことのひとつ。


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