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【街と街道を歩く】東海道を歩く(原宿~吉原宿)その3

東木戸跡

岳南鉄道の「本吉原駅」踏切の手前に、東木戸跡の道標があった。
ここから西木戸までが新吉原宿だったことになる。

岳南電車岳南鉄道線

岳南電車岳南鉄道線は、1949年11月18日に開業した富士山麓をのどかに走る全長9.2Kmの鉄道だそうだ。
車両は、京王帝都電鉄を走っていた車両が使われているそうで、京王電鉄の利用者にとっては懐かしい車両なのだろう。

岳南電車岳南鉄道線

新吉原宿

東海道五十三次の14番目の宿場である吉原宿は、1680年(延宝8年)閏8月6日の高潮により壊滅的な被害を受け、現在の吉原本町付近(新吉原宿)に移動した。

宿場は、原宿からは3里22間(11.8km)、蒲原宿までは2里30町23間(11.2km)
の距離にあり、日本橋からは34里27町22間(136.5km)の距離にあった。
宿場の長さは、12町24間(1.3km)あったという。

宿場は江戸方から東町、東横町、東本町、本町、西本町、西横町、伝馬町、追分中町、追分町と続き、裏町は本町の北側に配置されていたそうだ。
1843年(天保14年)の「東海道宿村大概帳」では、総家数653戸、宿内人口は2,832人(男1,328人、女1,504人)で、本陣2軒、脇本陣3軒があり、旅籠60軒あったと記録されている。
陸上交通や水運の拠点であったほか、富士参詣の宿駅としても利用されたのだそうだ。

新吉原宿の街道筋
新吉原宿の街道筋
下本陣跡の印

唯称寺

唯称寺は現在は新吉原宿にあるが、中吉原宿(依田橋の西)にあった頃に和尚さんの枕元に河童のおじいさんが現れ、助けを求められたことがあったそうだ。
和尚さんの夢枕に現れた河童から、河童の住処に馬鍬(農機具)がひっかかり子供たちが出入りできないので取り除いて欲しいと頼まれ、言われた場所にひっかかっていた馬鍬を取り除いたそうだ。
すると、再び河童が夢枕に現れ、お礼に茶つぼと魚を持ってくるとともに、唯称寺が火難や水難に遭わないように河童が守ることを約束したそうだ。
この後、唯称寺は一度も火事に遭ったことはないそうだ。

唯称寺
河童の屋根瓦
一枚板の階段

長さん小路

「長さん小路(こみち)」は、1944年小学校卒業と同時に富士市に疎開したいかりや長介さんにちなんで2005年に命名された商店街の一角の小路だそうだ。長さんは工場の仲間とバンド活動を始め、1959年に28歳で上京するまでの16年間、富士市で暮らしたそうだ。

長さん小路

鯛屋旅館

鯛屋旅館は、1682年(天和2年)創業の老舗の旅館だそうだ。
新吉原が1680年(延宝8年)の高潮被害後に移転していることから、鯛屋旅館は新吉原に移転直後に出来た旅籠ということになる。
鯛屋旅館には、清水次郎長や山岡鉄舟が常宿としていたそうで、現在はビジネス旅館、手打ちそば、うどん店として営業しているとのこと。

鯛屋旅館

西木戸跡

15時頃、西木戸跡に到達。
西木戸跡の道標には、「ここは吉原宿の西端に位置し、宿域の西の境界として木戸が設置され、人の出入りが管理されました。また、富士山修験の拠点である興法寺(富士宮市村山)に、東海道から来る富士登拝者を導くため、ここ吉原宿の西木戸を登山口とする「村山道」が設置されました。」と記載されていた。

西木戸跡の碑

潤井川

潤井川(うるいがわ)は、富士宮市の上井出付近に源を発し、富士市の田子の浦港まで流れる富士川水系の一級河川。

間宿「本市場」

本市場は、吉原宿と蒲原宿の間にあった間宿。
原宿と吉原宿の間になった柏原宿とともに多くの茶屋が建ち並び旅人たちで賑わった間宿だったそうだ。
本市場村の名物としては、白酒、葱雑炊、肥後ずいきなどが知られていたそうだ。

間宿 本市場の案内板

本市場一里塚

本市場一里塚は、日本橋から数えて35番目の一里塚で、144kmの距離にある。この一里塚も両側とも塚は亡くなっており、石碑が有るのみだった。

今回の歩行はここまでで、ここから富士駅まで歩き、帰途についた。
天候に恵まれ、のんびりと歩くことが出来た。

本市場一里塚の石碑

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