ラフ族の村への訪問 ② ~手紙~


『ラフ族の村 1日目』 ~手紙~

 朝は目覚まし時計が鳴る前に目が覚めました。ラフ族の村を訪れるにあたって、どこか緊張するところがあったようです。朝食をすませ身じたくを終わらせ、重本さんと上奈路さんそして僕の3人で待ち合わせ場所へと向かいました。重本さんはまだ“自分がはたして行っていいのだろうか”という迷いがあるらしく、何か落ち着かない素振りを見せていました。上奈路さんは“面白そうだからいいんじゃない”という感じで、あまり深くは考えているようではなさそうです。僕も芝浦工大の大学生たちとどういうふうに接しようかというとまどいは少しあったものの、ある程度開きなお直っていました。

  待ち合わせ場所である大学生たちが泊まっているホテルの前で、大学生たちが出てくるのを待っていると、急に重本さんが騒ぎはじめました。どうしたのかと訊ねると、“マネーベルトがない”というのです。どうも彼は約6万円のトラベラーズチェックが入ったマネーベルトを昨晩眠る前に枕の下に入れておき、そのままでホテルを出てきてしまったようなのです。重本さんは急いで宿泊していたホテルへと走って行きました。僕らは心配しながら重本さんが戻ってくるのを待っていると、しばらくして沈んだ顔をして戻ってきました。 

  「やっぱり、ない」。そのあとくまなくバッグの中などを探したのですが、やはりありませんでした。どうも彼がチェックアウトしたあと、ホテルのボーイがベッドメイキングを行い、そのボーイがマネーベルトを盗んだようなのです。「もう一度ホテルへ行ってみましょう」。僕は言い、上奈路さんを残しホテルへと戻りました。予定の出発時間はあと5分程でしたので僕らは急いで戻りました。
 
ホテルでベッドメイキングをしたボーイに「枕の下にマネーベルトはなかったか?」と訊ねても、「知らない」と答えるばかりです。チェックアウトしたあとの出来事であり、こちらも強く出れないので、仕方なくベッドの下など考え付くあらゆる所を探したのですが、やはりありませんでした。途方に暮れていると外の方で「ブッー、ブッー」という音がしました。大学の一行が待ちきれずにホテルまで迎えにきたようです。「俺はトラベラーズチェックの再発行手続きをしないといけないので高見沢さんは先へ行ってください」と重本さんは言いました。僕は少し迷ったのですが重本さんには悪いけど重本さんをおいてラフ族の村へ行くことにしました。

「また、どこかで会いましょう」。車を待たせているため、ろくな挨拶をすることもできずに別れてしまうことになりました。重本さんとはかなり仲良くやっていたし、ラフ族の村を訪問するにあたっても、彼の陽気なキャラクターは心強かったのですが、突然のハプニングにより予定がくるっていましました。僕はみんなを待たせている車に乗り込み重本さんに手を振ると彼は残念そうに手を振り替えしてきました。

 車はピックアップトラックというやつでした。その荷台に大の大人が10人ほど乗っているのです。狭く足が伸ばせないのでその移動は大変つらいものでした。芝浦工大の学生たちはきちんと挨拶もかわしていないうちにトラックに積み込まれたので、なんとなく話すきかっけをつかめずにいました。どちらかというと芝浦工大のゼミ生たちは大人しい人が多いようです。僕は“最近の大学生はとりあえずバカ騒ぎが好きなうるさいヤツら”というイメージがあったので、なにか肩すかしをくらった気分でした。

 トラックは2時間弱でラフ族の村に着きました。僕は少数民族の村というのはみんな日本の縄文時代のように竪穴式住居のようなところに住んでいるものと想像していたのですが、建物こそ竹で作られていたものの高床式である、意外にきれいなつくりの住居でした。僕らはそのうちの一軒に泊まらせていただくことになっていました。

 住居の中に入ると薄暗いのですがそごく居心地は良さそうです。中はかなり広く10人ぐらいは寝れそうです。僕らはこの家で芝浦工大の人たちと共に3日間を過ごすことになりました。とりあえずみんな中に入り車座になるとゼミの教授でありボランティアの中心的人物でもある畑教授発案により自己紹介をすることになりました。とりあえず僕が指名されて、会社を辞めて旅に出てきたこと、また今後の予定等について話しました。自己紹介が終わるとこの家の住人でもあるおばあさんが出てきました。

おばあさんは何か言っているのですが、おばあさんはラフ語で話しているため何を言っているのか全然分かりません。三輪さんに通訳してもらうと(三輪さんはタイ語はもちろんのこと5部族ほどの少数民族の言葉が話せる)。おばあさんは5歳のときに神の啓示を受け、それ以来るシャーマン(呪術師)となり今に至るというのです。おばあさんは僕ら1人ずつの手にヒモを結ぶと念仏をとなえました。どうもこのヒモをしていると災害等を免れることができるというのです。この日以来みんなの右手に白いヒモが結ばれることになりました。

 とりあえずのミーティング終わり昼食をすませると芝浦工大の学生たちは家屋の調査をしはじめました。僕はこのときに何人かの学生に話しかけたのですが、どうも彼らは卒論のテーマである“ラフ族の村の住居の研究”が目的でタイに来ているようなのです。彼らは建築学科に属しているためそのような研究をしているようであり、ボランティア活動とはそれほど学生側は関係がないようなのです。

 彼らのほとんどはタイへ来るのははじめてであり、ゴールデンウイークの間に実費でタイに来て卒論を進めるとのことでした。彼らの多くがボランティア活動をしているというのは僕らの勝手な思い込みにすぎなかったようです。彼らにとっては目の前の課題である“ラフ族の住居の研究”が最大のテーマであり、僕らが適当にブラブラしていいということのようなのです。そうなるとますますチェンライの街に取り残された重本さんが残念でなりませんでした。

 ラフ族の村を訪れるにあたって事前に僕と重本さん(来れなくなってまったが)、上奈路さんで話し合っていたことがあります。それは3日間“めいいっぱい子供たちと遊ぼう”ということでした。そのようなことを決めたのは次のようなことからです。『単なる旅行者である僕らが、突然山岳少数民族の村を訪れて一体何ができるのであろうか。彼らが日常行っている仕事、例えば畑仕事などを手伝えたらいちばんいいだろう。しかし畑仕事など経験のない僕らが出ていっても足手まといになるだけであろう。

ではどうすればいいか。もう大人たちの役に立ちたいということはあきらめて、子供たちの相手をしてあげよう。ラフ族の村にはきっとたくさんの子供たちがいるに違いない。退屈な毎日が続くと思われる村の中で、僕らは突然の訪問者となり、めいいっぱい子供達と遊んであげよう。できれば彼らにとってとてもいい思い出僕となるように。』僕らはそのように考えました。そして僕はテニスボール2個、上奈路さんは折り紙を持って行きました。

 小さな村をひとととり歩いたあと、僕と上奈路さんはさっそく子供たちと遊ぼうと思い、子供達が集まっている近くに行き、少し離れたところから微笑みかけていました。通常でしたら強い好奇心を持っている子供達は手を振ってくれると近くに寄ってくるとかしてくれるものなのですが、ラフ族の子供達はそのどちらもしてくれませんでした。強い“警戒心”なのでしょうか。彼らはまばたきすることなく僕と上奈路さんの一挙一動を見ているのです。それは“にらんでいる”と言えるほどの強い視線でした。僕らは比較的安易に子供達と打ち解けられると思っていたのですがあまかったようです。

彼らは自分の住んでいる村意外の住人との接触が極端に少ないのです。だから都会に住んでいる子供達と同じように接していてはダメなようなのです。子供達は同じくらいの年齢の子と5~6人ぐらいのグループをつくり夫々のグループで遊んでいました。どのグループも同じでした。突然の訪問者に対し彼らはなかなか心を開いてくれませんでした。「まいったな」僕と上奈路さんはお互いの顔を見合わせそう言いました。“3日の間に果たして彼らと仲良くなれるのであろうか”僕は少し不安になってきました。

 あまり暑い日差しの中を歩いていたので疲れてしまい、僕らはいったん家へと戻りました。竹でできているその家は意外に風通しがよく中はひんやりとしていました。ラフ族の村は山の中にあります。山といってもそれほど標高が高いわけではないので暑さは平地と変わりありません。村へ行けばいくらか涼しいと考えていた僕があまかったようです。

 しばらく休んだあと僕らは外へ出てみました。子供達は先ほどより少なくなってしました。ラフ族の子供達にとってもやはり暑さはこたえるこでしょう。きっと昼寝でもしているに違いありません。家のカゲでキャッキャッと子供達の騒いでいる声が聞こえてきました。僕らは声のする方へと行ってみました。すると子供達が6~7人集まっており、何をしているのかというとシーソーをしていたのです。シーソーと言っても日本の公園にある鉄でできたものではありません。そこには地上から50センチ程はなれたところから、きれいに二股に分かれている木がありました。子供たちはその枝の分かれ目に1m50cmほどの太い竹を入れ、その両端に乗ってシーソーをしているのです。

それは実に簡単なつくりのシーソーでした。竹はけっこう丈夫なようで片方の端には2~3人ずつ程乗っており、子供たちは無邪気にキャッキャと遊んでいました。僕らが近づいても子供たちは逃げることもなかったので近くで遊んでいる姿を見ていました。しばらくすると上奈路さんが“私にもやれせて”というふうに身振りで子供たちに示すと、“うん、いいよ”というふうにシーソーの片方を空けてくれました。子供たちはだいたい5~6才で体が小さいため上奈路さんの反対側には吊り合いをとるため2人の子供が乗りました。

 彼らは、僕らを友達としてみなしてくれたようです。僕らにも無邪気な笑顔を見せてくれるようになりました。途中で上奈路さんが「代わろう」と言うので僕はおそるおそるシーソーに乗ってみました。それは竹でできているのでしょうか。お尻が痛いのではと思われたのですが、 太いこともあり意外に快適でした。そのグループの子供たちはすっかりうち溶けることができました。ある子供がシーソーの土台になっている木の実を取って、“これ食べてみな”というふうに僕らに手渡してくれました。

その実はまだ青くピンポン玉を一回り小さくしたぐらいの大きさでした。見たこともない実でした。“どういう風に食べればいいんだ、そもそもこれは本当に食べれるのか?”。その実を手の上で訝しげに転がしていると一人の子が僕らの肩をコンコンと叩き、“こういう風に食べるんだよ”と自らその実の食べ方を示してくれました。

  僕は 同じように皮をむきその実を口の中に入れてみました。「すっぱい!」僕は思わず声をあげてしまいました。本当にものすごく酸っぱかったのです。でもその味は紛れもなくライチの味でした。シーソーとして使っていた木はライチの木だったのです。レストラン等でライチは食べたことはあったのですが、それは皮をきちんと剥き、お皿の上に盛られたものだったので、実際に木になったものを見たことがありませんでした。そのライチはまだ若く酸っぱかったのですが、“いかにも自然の味”というような感じでとても美味しく、自然に病みつきになってきました。子供達は“もういいよ”というぐらい僕らのためにライチの実を取ってくれました。

 そのシーソー以後は他の子供達も警戒心を解き、僕らに笑顔を向けてくれるようになりました。ただみんなものすごく恥ずかしがり屋なので、彼らに手を振ると「キャー」と言って家の中に隠れてしまいます。でもそれはあくまでも“照れ”であるということが見て取れたので、僕らは“あと2日あればかなり子供たちとは仲良くなれるんじゃないか”とお互いにその日の収穫を喜んでいました。

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