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「関孫六異聞」幕末を震撼させた不思議な刀

一振りの刀が、史上名高い事件に次々と関わっていく・・・。
まるで小説のような言い伝えのある不思議な刀が存在した。
関孫六兼元(せきのまごろくかねもと)。
抜群の斬れ味を持つ大業物(おおわざもの)の血の軌跡とは。

「井伊掃部頭(いいかもんのかみ)を仕とめもしたぞ」桜田門外の変

「狼藉者(ろうぜきもの)!」
季節外れの牡丹雪が霏々(ひひ)と降る五つ半(午前9時頃)、行列の先頭から声が上がるや、一発の銃声が響く。

それを合図に、江戸城桜田門近くの堀端で登城見物をしていた十数名の水戸浪士らが一斉に抜刀し、雪を蹴って彦根藩井伊家の行列に襲いかかった。

安政7年(1860)3月3日、桜田門外の変である。

たちまち、方々で鍔(つば)競り合いが始まる。彦根藩士らは刀に雪よけの袋をつけていたため、とっさの防戦で後れはとったものの、「真剣で戦う時は、(互いに腰が引けて)距離が開くと聞いていたが、そうではなく、刀の半ばや鍔元で競り合っていた」と、目撃した杵築(きつき)藩士が語るほどの激闘だった。

浪士の一人、稲田重蔵が、大老井伊直弼(なおすけ)の乗る駕籠に突進するが、両刀をかざして駕籠脇を守る供目付・河西忠左衛門に斬り倒される。その河西も、複数の浪士を相手にやがて雪上に斃(たお)れた。

一瞬、駕籠の周辺が無人となった機を逃さず、駕籠の左右から有村治左衛門と広岡子之次郎(ねのじろう)が駆け寄り、白刃を突き入れる。そして有村が、長裃(ながかみしも)姿の井伊を駕籠から引きずり出した。

井伊は居合の達人であったが、銃弾が腰に命中していて、すでに身動きができなかったともいう。

刺子(さしこ)の稽古衣に馬乗袴の股立ちを高くとり、革の稽古胴をつけた有村は、水戸浪士らの中でただ一人、襲撃に参加していた薩摩人であった。

有村は名乗ると、この日のために知人から借りた大業物、関孫六兼元二尺六寸を脇に構え、雪道に手をついた井伊が起き上がろうとしたところへ、鍛え抜いた薬丸自顕流(やくまるじけんりゅう)で斬り下げた。

「井伊掃部頭をおいどんが仕とめもしたぞ」

井伊の首を切先(きっさき)に刺し貫いて有村が叫ぶと、浪士らは喜色を浮かべ、逆上する彦根藩士らを退けながら撤退を始めた。

戦いはものの数分であったという。
有村は首を刺した刀を肩にかつぎ、日比谷見附方向へ歩き出すが、満身創痍の上、疲労困憊。広岡に助けられながらよろよろしている。

そこへ深手を負いながらも追いかけてきた彦根藩士・小河原秀之丞が、「殿の首を返せ」と有村の後頭部に渾身の一刀を浴びせた。それが致命傷となった。

小河原は他の浪士に討たれたものの、有村も力尽き、辰の口・若年寄遠藤但馬守邸前で自刃。享年23。

井伊の首は彦根藩士らが取り戻した。そして有村が用いた関孫六兼元は、持ち主の薩摩藩士の元に戻されたのである。

「上意討(じょういう)ちも苦しからず」寺田屋事件

美濃の刀工・関孫六兼元の作は、「三本杉の刃文」(3本目が杉の木立のように高くなっている)が特徴で、抜群の斬れ味で知られた。

初代から数えて4代続き、有村が用いたのは明応・永正年間(1492~1521)の2代兼元という。

そしてこの兼元の持ち主が、有村治左衛門の長兄・俊斎の友人である奈良原喜八郎(繁)であった。大老を討った兼元が手元に戻ると、奈良原は有村の武勲を大いに誇りとしたが、やがて彼も兼元とともに、幕末史に残る事件に巻き込まれていく。

桜田門外の変から2年後の文久2年(1862)4月、薩摩藩国父(藩主の父)・島津久光は兵1,000を率いて上洛。朝廷の信頼を得た上で江戸に下り、幕政改革に乗り出す目論見だった。

ところが諸国の攘夷浪士らは久光の率兵(そっぺい)上京を利用して、幕府寄りの関白や京都所司代を血祭りにあげ、挙兵することを画策。薩摩藩急進派の有馬新七らもこれに呼応し、京都伏見の船宿寺田屋に薩摩藩士と浪士ら約50人が集結した。

この事態に久光は、暴発を未然に防ぐべく23日夜、8人の鎮撫使を派遣する。「説得に従わぬ場合は上意討ちも苦しからず」とされ、いずれも剣の腕利きが選ばれた。

その筆頭が兼元の持ち主・奈良原喜八郎である。

寺田屋に急行した奈良原らは、入り口付近で有馬らに君命に従うことを説くが決裂、「上意!」と叫んで鎮撫側が斬りかかるや、薩摩藩士同士の壮絶な乱闘となった。奈良原も関孫六兼元を抜き、森山新五左衛門、西田直五郎を斬り倒したという。

階下での乱闘が収まると、奈良原は刀を外し、寸鉄帯びぬ諸肌脱ぎとなって階段を上がり、二階にいた面々に「頼みもす」と頭を下げて暴発を押し止めた。

これが世にいう寺田屋事件で、鎮撫側は一人、急進派側は六人が討死、二人が切腹した。かくして一振りの関孫六兼元が、ここでも幕末史に爪痕を残したのである。

「無礼討ちせよ!」生麦事件

寺田屋事件の騒ぎから4ヵ月後の8月21日。江戸での幕政改革を終えて帰国途上の久光の行列に、武蔵国生麦村(現在の神奈川県横浜市鶴見区)付近で、数人のイギリス人が制止も聞かず、馬を乗り入れてしまう。行列は乱れた。

薩摩藩士らは下馬の指示をするが、これにも従わなかったリチャードソンを、供目付の奈良原喜左衛門が「無礼討ち」した。生麦事件である。

喜左衛門は喜八郎の実兄だが、実は斬ったのは喜左衛門ではなく、喜八郎であったとする説もある。もしそうであれば、同じ関孫六兼元が幕末を3度、震撼させたことになる。

なお喜左衛門は生麦事件から3年後の慶応元年(1865)、病を得て京都の藩邸で没したというが、異説もある。実はわけあって江戸品川の寺で切腹したというものだ。

理由は家族にも知らされなかったが、介錯は弟の喜八郎が務めたという。事実だとすれば、喜八郎はこの時も、大業物の兼元を用いたのだろうか。

幕末を血で染めたこの兼元の行方は、杳として知れない。

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