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里見公園は城跡のごく一部? 2度の大合戦の舞台・千葉県市川市の国府台城


都内からけいせい本線で千葉県の船橋方面に向かうと、江戸川駅(東京都江戸川区)の次が国府こうのだい駅(千葉県いちかわ市)です。江戸川駅を出た列車が江戸川に架かる橋を渡り始めると、対岸に川に沿うようなかたちで、樹木におおわれたこんもりとしたがんだんきゅうが見えてきます。木々の中に、よう女子大の茶色い建物も望めるでしょう。その奥に、かつて国府台城がありました。 

最近、千葉県まつ市内の相模さがみだい城、松戸城を紹介しましたが、どちらもてんぶん7年(1538)の第一次国府台合戦の舞台となった城でした。合戦自体は松戸駅周辺の相模台付近で行われましたが、その戦いが国府台合戦と呼ばれるのは、一方の軍勢(ゆみぼうさと勢)が国府台城を拠点としていたからです。また第一次と呼ぶのは、その後、第二次国府台合戦と呼ばれる戦いも起きたからでした。今回はたびたび大きな合戦の舞台となった国府台城について、紹介します。

江戸川と国府台城跡(右)

里見公園は城の南端に過ぎない

国府台と書いて、「こうのだい」と読みます。この地名は千葉県市川市だけでなく、千葉県いすみ市や静岡県いわ市など、いまも日本各地に散見されるもので、古代の政庁であるこくに由来します。市川市の国府台は、下総しもうさのくにの国府のある場所でした。国府跡の正確な場所は不明ですが、国府台周辺と考えられ、すぐ東の市川市こくぶんに、国府付近に建てられる国分寺、国分跡があることも、それを裏づけています。

さて、国府台城跡についてはネット上などで、現在の市川市立里見公園が城跡とする情報が少なくありません。確かに里見公園の入り口には「国府台城跡」の碑が建ち、L字型の公園の西から北にかけて、るいようふんなどがあって、城跡の雰囲気が感じられます。しかしながら、それがすべてだと思ってしまうと、国府台城の規模を見誤ることになるでしょう。かくいう私も、最初は十分な下調べもせずに訪れて、「意外に小さな城だな」と思い込んでいました。

実は、私たちが目にする里見公園は、かつての国府台城の南端の曲輪くるわにすぎません。実際の城は、「かんの井」のある公園南の道(堀跡ともいわれます)を最南端として、北に延びるぜつじょう台地上に築かれた巨大な城でした。

主郭はどこなのか

下の図は、国土地理院の地形図上に、かつての国府台城のなわばりと江戸川の流路、湿地などを、現在している縄張図を参考にして落とし込んだものです。

城跡の規模は南北約650m、東西は北部の細い部分で約100m、最も幅広い部分で約230m。比高は
西側の河川敷から約15~20m、東側の谷津から約15m

当時、江戸川(当時はふと川)は城の西側のだんがいを洗うようにして流れていました。また東側は谷で、湿地が広がっていたとされ、図に起こしてみると、まるで川と湿地に突き出した半島のようにも見えます。

曲輪は5つあったと考えられていますが、どこがしゅかく(本丸)であったかは明確ではありません。本図の曲輪のナンバリングは、せんはらやすかた『国府台合戦を点検する』(ろん書房)を参考にしました。こうした舌状台地上の城では、先端に主郭を置き、台地側に近づくにつれて二の曲輪、三の曲輪とするケースが一般的です。つまり国府台城であれば、本来Ⅳが主郭になるはずですが、千野原氏の『とうかつの中世城郭』(崙書房)によると、昭和42年(1967)頃、Ⅰ、Ⅲ、Ⅳにかけてゆるやかに北に傾斜し、それぞれが段差によって区画されていた痕跡があったといいます。またⅡも北東方向に傾斜していたため、これらの曲輪の中ではⅠが最高所と考えられるようなのです。

一方で城の東側に、江戸時代に移転してきたそうねいがありますが、寺の記録では「本堂うしろせんじょうじきキ本丸ともうすところニ、いしびつけんこれあり」と、本堂の背後を「千畳敷」、古墳のせきかんのある場所を「本丸」と記しています。つまりⅤの里見公園を主郭としているわけですが、しかし最も台地側の曲輪が主郭であったとは考えにくく、廃城後、国府台城の本来の姿が忘れられていく過程で、そうした伝承が生まれたのではないかと私は想像しています。

城跡南端の堀切跡の道(左)と総寧寺(右)。「里見城跡総寧寺」と彫られているが、国府台城はそうした呼び方もされていたのだろうか

城跡を歩く

さて、里見公園から城の北端を目指して歩いてみました。

公園入口や城跡碑のあたりは城域の最も東南側で、曲輪の外であったでしょう。入口前の南側の道が堀跡だとすれば、曲輪Ⅴの前衛となる外曲輪的なものだったのでしょうか。公園内を西に進み、噴水広場を過ぎたあたりから起伏のある木立の景観となります。西南かどの高まりはやぐらだい跡といわれ、古くから「ものの松」と呼ばれていたとか。またすぐ近くの土塁上には、第二次国府台合戦で討死した里見軍将兵の供養碑、「夜泣き石」と呼ばれる伝説の石(実際は古墳の石棺のふた)があります。

国府台城碑(左)と「物見の松」と呼ばれていた櫓台跡(右)
里見弘次並びに里見軍将士亡霊の碑(左)と「夜泣き石」(右)。「夜泣き石」には、里見弘次の姫が、父の死を嘆いて石の傍らで息絶え、以来、夜ごと石がすすり泣いたという伝説がある

曲輪Ⅴで特徴的なのは、東南から西北に2本の土塁が築かれており、その北端にあけ古墳があることでしょう。土塁は古墳の盛り土などを利用して築いたとされますが、しかし国府台一帯は明治以降、陸軍の用地となっており、また曲輪Vには「里見八景園」という遊園地も設置されたことがありました。そのため、開発の過程で相当な改変が加えられたと考えるべきで、現在目にする土塁も、どこまで戦国当時のかたちを留めたものなのか、わからないのです。

土塁(左)と明戸古墳(右)

なお古墳の北側、曲輪Ⅴの北端にも櫓台跡の高まりがあり、また北隣の曲輪Ⅰと曲輪Ⅴを分ける空堀跡が、細い道となって残っています。

櫓台跡(左)と空堀跡(右)

太田道灌による築城と、ゆかりの天満宮

空堀跡の道に出て、櫓台跡を右手に見ながら東に少し進むと、神社があります。国府台てんまんぐうで、わらで作った大蛇を地域のすみの木にかけてけとする「つじり」の行事で知られます。こちらの天満宮はぶんめい11年(1479)におおどうかんが当地のちんじゅとしてまつったもので、もともとは城跡の東にあるほうおうづか古墳の墳頂部に鎮座していました。そのため法皇塚古墳まで城域だったのでは、とする見方もありますが、判然としません。

国府台天満宮

おうぎがやつうえすぎ氏のさい(重臣)で、江戸城を築いたことで有名な太田道灌と国府台城の関わりは、文明10年(1478)12月、下総さかいはらの合戦(千葉県かしわ市)の際に、道灌がこの地に陣をき、じんじろ(臨時の城)を構えたことがきっかけでした。翌文明11年に本格的に築城され、国府台城の歴史はこの時から始まります。その後、2度の国府台合戦の際は、がね城に本拠を置くたか氏の支配下にあったものと思われ、小田原のほうじょう氏も関与したはずですが、城主などくわしいことはわかっていません。

北の櫓台、腰曲輪、丸山

国府台天満宮が現在の場所に移転したのは、明治時代に入ってのこと。ですから国府台城が存在した頃、神社はここにはありませんが、付近は曲輪Ⅱの南端にあたります。神社から、位置的におそらく曲輪Ⅰと曲輪Ⅱを分ける堀か土塁だったと思われる道を北に進むと、一帯は住宅地で、ところどころ畑が残っていました。宅地化されるにあたり地表はさくへいされ、城の痕跡は消されてしまったのでしょう。しかし東側に目をやると、かつて湿地帯であったはずのが、住宅で埋めつくされながらも、地形はありありと残っていました。また西には台地のはしに沿って樹木が茂り、その下には土塁の痕跡が続いているようですが、畑が広がっていて道がなく、近づけません。

西側の土塁跡と思われる木立(左)、住宅地に残る城跡の面影(右)

さらに北に進んで曲輪Ⅳ跡の西側には、台地が下り始める直前の位置に、櫓台跡とされる茂みがあります。また東側の住宅地を少し下っていくと、こし曲輪ぐるわ跡と思われる土塁がこつぜんと現れ、大いに驚きました。個人的には里見公園より北で、ここが最も印象に残っています。発掘調査などは、されているのでしょうか。

北端の櫓台跡を下から望む(左)、腰曲輪跡と思われる土塁(右)

腰曲輪からさらに北に進むと、台地を下り切った低地に至りますが、またすぐに上り坂となります。これは台地北端のすぐ北に丸山と呼ばれる高みがあるからで、低地を東西に走る道は堀跡ではないか、ともいわれます。丸山にはくりやま古墳があり、位置的に国府台城の何らかの施設があってもおかしくないでしょう。曲輪ぐるわ的に使われていたのかもしれません。

栗山古墳の標柱(左)と栗山古墳付近(右) 

以上、里見公園から城の北端にかけて歩いてみました。おそらく見落としている痕跡も少なくないとは思いますが、国府台城のスケール感はある程度お伝えできたのではないでしょうか。なお、国府台城を舞台とする戦いについては、改めて別の記事でご紹介したいと思います。近郊の方は、ぜひ国府台城跡を訪れてみてはいかがでしょうか。




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