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大学時代③

そういえばいわゆるパソコンに触れるようになったのもこの頃だった、まぁこの頃はパソコンではなく、いわゆる大型コンピューターで汎用機と言われるものだった。この当時は確か富士通のFACOM230-15だった。それが大学3年の時、いわゆる選択科目で情報処理とFORTRANの授業を選んでしまった。昭和55年(1980年)には汎用機も日本電気のACOS-77に変わり、端末機も約20台ほどに増えていたように思う。しかし初めは大変だった。端末の変わりにカードパンチ機でプログラムを入力するのだ、正確に言えばカード穿孔機で入力カードを作り、それをカードリーダーから入力するという、とんでもないシロモノだった。プログラムは一行一枚だから、一ヶ所間違える度にカードはダメになる。その頃カードは一枚5円くらいだっただろうか?、其の上、プログラムを処理している間、使用料がかかる。おまけにプログラムを打ち出すプリンタの紙代まで支払わなくてはならない。エラーの度に紙代と使用料を取られるのだから、たまったものではなかった。そういう意味でも、使用料の取られないパーソナルコンピューター(当時はマイコンと言った)が欲しかったが、1979(昭和54)年5月に発売されたNEC製のPC-8001の16万8千円という値段は当時の自分の仕送り額の倍以上であり高値の花だった。

そんな時、いわゆる電算ルームにたむろしていた自分たちに、数学の教授(高須先生)が一台のマシンを僕達に貸与してくれる事になった。それは1979年発売のシャープMZ80-Cだったと思う。当時のマシンとしては記憶装置にカセットテープがついていて、画期的だったのだ。僕らは数人の仲間達でそのマシンをいじくり回していた。とは言っても、雑誌などに載っているBASICのゲームを入れるだけというものだったが、すべてがMZ80用に載せられているのではないから、移植しながらというかっこうだった。しかし所詮がゲーム中心であり、当時の自分はあまり燃えてもいなかった。でも、中にはすごい奴がいるもので、その頃ACOSの端末を操作することが出来るようになっていたが、なんとFORTRANでスタートレックゲームなどBASICで書かれた物を移植する奴まで出てきた。自分がプログラミングを諦めるようになったのは、とてもそいつのセンスにはかなわないと思ったことも一因であるように思う。

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