takao_310

私は昭和36年生まれで還暦を迎えました。今までの人生の中で経験してきたことをちょっと綴…

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私は昭和36年生まれで還暦を迎えました。今までの人生の中で経験してきたことをちょっと綴ってみたいと思います。 趣味は主に読書(北杜夫→星新一→大藪春彦→池波正太郎→東直己)、ギター演奏(アコースティック、エレキ共)

最近の記事

I/Oプラザその①

ところで以前、友人が「I/Oプラザという店を開店した」という事を書いたので、その店の事を書こうと思う。平成3年(1991)3月16日、アイオープラザ本店が開店したのだった。 コスモビットという店のアドバイスのもと、パソコンソフトを主に扱うお店が誕生したのだった。 その頃個人でパソコンを持っている人口ってどれくらいだっただろう。 多分20人に一人いるかいないかぐらいじゃないのか? 確かにそれなりの需要はあるかもしれないが、本当にやっていけるのだろうか? 初めの2年くらいは大変

    • 社会人時代⑩

      Windows95にするまで、3ケ月くらいはWin3.1からネットに接続していたのではないだろうか。色々な所を回っていたのだが、結局たどり着くところはエロページだった(^^;この頃は会社のFAX回線に14,400bpsモデムを無理矢理つけて接続していたのだがFAXを使うたびに回線が切れてしまうのである。まことにストレスが貯まるのだが、仕方の無いことである。しかし何かをダウンロードしている時に急に切れてしまうのは耐えられなかった。したがって、日曜にこっそりと会社に出てきて落とす

      • 社会人時代⑨

        そして1994年にはB5タイプだがノートマシンを購入することとなった。 これが初めてのDOS/Vマシンということになる。もちろんOSははじめからWindows3.1だった。このマシンは私が使っていたのではなかったので詳しいことはわからない。 しかし、始めてパソ通からインターネットの世界に入ったのはこのマシンだった。プロバイダと契約しなくてもお試しでやらせてくれるというのである、しかし甘かった。今の人にはわからないだろうが、Windows3.1は標準でTCP/IPをサポートして

        • 社会人時代⑧

          そのうち会社にマシンが増えてきた。 1993年(平成5年)にPC-9821AsにMOをつけた奴が与えられた。 人員の稼動手配のためである。千歳にあるソフト会社に発注したのだが、 肝心の部分がいつまでたっても出来てこない。 半年もたったら連絡もしてこなくなった。 こちらとしてはお金がかからなかったので、別にどうということも無いがマシンが使われずにあまってしまう事となったのである。 しかしちょうどこの頃大きな変革が起きてきた、Windows3.1の到来である。そのためにウィンド

        I/Oプラザその①

          社会人時代⑦

          ともかく会社のほうは1992年にPC-9801FAが導入された。外付けHDD10MBが付いており主に一太郎とLotusを動かしていたような気がする。そういえば入社2年目のころ隠れてアルバイトをする機会があった。 以前の会社に勤めていた時の先輩が忙しいので、手伝って欲しいとの事だった。とある機械の部品を管理するプログラムのようなもので、今だったら「アクセスでやれば?」って感じだし、その当時でもSQLなどで出来たような気がするが、Cで全部を組むという計画だったので、人手が欲しかっ

          社会人時代⑦

          KANさんの訃報に接して

          KANさんが死去した。色んなアーティストが好きではあるが、KANさんについてボーっと考えてみた。とりとめの無い話しになると思いますが、よろしかったら、見て頂けたらと思います。 当然、KANさんを知ったのは「愛が勝つ」だった。令和の今になっても、歌い継がれる名曲である。愛が勝つが入っているアルバムが『野球選手が夢だった。』である、その中に「1989(A Ballad of Bobby & Olivia)」という曲がある。Youtubeでも見れるので、ぜひ興味がある方はご覧下さ

          KANさんの訃報に接して

          社会人時代⑥

          そして、次の職場に就職した。この会社は建設会社だった、入社した当時にはPanasonicのパソコンらしきものがあったが、マニュアルをよく読んでみると富士通のF9450のOEMだった。 OSはCP/M-86で5インチディスクをガチャガチャと突っ込んで動かしていたもので、HDDに慣れた自分にはそーとー旧式な感じがしたが、どうしようもなかった。 一応エポカルクという表計算とエポワードというワープロソフトが付いていたが、表計算は複雑になると計算するのに遅くなってしまうので、自動計算を

          社会人時代⑥

          社会人時代⑤

          1987年仕事をやめたあと、アイスクリームの移動販売を手伝っていたのだが収益があがらないので、やめることとなった、そしてその後バイトで専門学校のソフト関連の参考書を作る事となったのだ、参考書だから文書を早く打つ必要がある。 その時に一太郎を覚えた。 またそのソフトの使い方を知らなくてはならない。MS-DOSの時代である。OSがなんたるかもよくわからなかったが、必死で勉強した。 そしてAutoCADも、Infomixというデーターベース言語も覚えなければならなかったが、この時

          社会人時代⑤

          社会人時代④

          喘息で苦しみ彼女とも分かれた頃だった、札幌に残っていた友人から連絡があり、ダイビングの体験をしてみないかというお誘いであった。 喘息患者は絶対そんな事をしてはいけないのだが、彼女にもフラれ、自暴自棄気味だった自分はその誘いに乗った。 Zというショップだったが、札幌から2時間ほどの積丹半島で講習をやっていた。友人らと一緒に行ったのだが、特に説明があるわけではなく、ほとんどいきなり潜る事となった。 自分はほとんど泳げないのだが、ウェットスーツのせいで海上で浮くことが出来、重りを

          社会人時代④

          社会人時代③

          会社に入り2年目の春、風邪を引いたのか咳がでるようになった、近くの 病院で見てもらうと、やはり風邪との事で薬をもらったが、全然咳が止まらない。 そこで仕方なく岩見沢労災病院に診察を受けにいった、この病院は後で知ったのだが、美唄炭鉱でじん肺に罹った患者さんを受け入れていたので、呼吸器科のエキスパートだったのだ、色々と検査を受けてなんと「喘息」であると告げられた。小児喘息は知ってはいたが、まさか24歳になってから喘息にかかるとは思ってもいなかった この頃はまだあまりいい薬が無く

          社会人時代③

          社会人時代②

          さて、入社2年目の時社長がどこからか、PERTという工程管理システムのことを聞きこんできた。そのため当時発売されていたPC-9801VMを購入するという話しになったのである。 もちろん使うのは自分ということになったが、ソフトと言うのはデータがあって始めて威力を発揮するのである。その当時ろくに工程管理など考えていなかった職員達に、協力を求めてもムダであった。また、マシンに対する恐怖の念というのも確かにあっただろう。 当時、初代ファミコンが昭和58年7月(1983年)に発売されて

          社会人時代②

          社会人時代①

          大学を卒業後、岩見沢市の小さな土木工事会社に就職した。当時オフコンと呼ばれていた、いわゆる事務用の小さな汎用機みたいな奴のオペレーター兼経理ということであったが、マシンを見て仰天した・・・・。 それはリコーのマシンではあったが、なんとディスプレイがない、そして記憶装置はメタルのカセットテープという、旧世代に戻ってしまったようなものであった。入力はキーボードでするのだが、それがタイプライターのようにプリントされるという仕組みだ。またそのプリンターが酷いもので、円盤状のヘッドを機

          社会人時代①

          大学時代⑤

          そして重要なのがこの時、高校生の女の娘も当然バイトに来ていた。多分三人くらいいたと思う。その内の一人と付き合う事になったのだ。実質上初めての彼女と言ってもいいと思う。 大学も四年生となれば、それほど授業はない。ゼミに週一度通うくらいで、それ以外の時間はほとんど電算室に通い、夕方になるとバイトに出かける日々だった。ただ四年生ともなると就職活動が始まる。高校の時に簿記を習っていたせいもあると思うが、建築会社の経理課なんかがいいかなと呆然と思っていた、なぜなら自分の父親もそんな仕事

          大学時代⑤

          大学時代④

          結局PC-8801など、マシンは色々増えていったのだが、自分は3年になってからACOSで扱う事の出来たSPSSという言語に凝っていた。いわゆる統計用のデータ解析プログラムのようなものだが、教授の手伝いということで端末の使用料金、用紙代も全て教授持ちというのが魅力だった(笑)。暇な時は友人の作ったゲームを思う存分やれるというのも、大変うれしかったしなんと言っても、冷房完備だから夏休みは通いつめたものだった(^^; しかしSPSSは当時、汎用機でしか動かないものだったので、大学

          大学時代④

          大学時代③

          そういえばいわゆるパソコンに触れるようになったのもこの頃だった、まぁこの頃はパソコンではなく、いわゆる大型コンピューターで汎用機と言われるものだった。この当時は確か富士通のFACOM230-15だった。それが大学3年の時、いわゆる選択科目で情報処理とFORTRANの授業を選んでしまった。昭和55年(1980年)には汎用機も日本電気のACOS-77に変わり、端末機も約20台ほどに増えていたように思う。しかし初めは大変だった。端末の変わりにカードパンチ機でプログラムを入力するのだ

          大学時代③

          大学時代②

          そして大学2年生となった時[西岡マリア荘]をでた、一人暮らししてみたかったのだが、やはり家賃が高く中々いい物件がでてこない、もうそろそろ決めないと焦ってた頃、一緒にマリア荘に住んでいた同級生が、自分もここを出たいがやはりいい物件がないので、二人でシェアハウスしないかと言ってきた。二人なら6万くらい払えるし、リビング付きで自分たちの部屋も出来るので、その提案に乗った。結局地下鉄澄川駅から徒歩5分くらいの[大藤MS]という所に二人で住み始めることになった。炊事と掃除は一週間おきに

          大学時代②