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シリーズ日本アナウンサー史① 第一声 京田武男

私は大学時代、法学部で政治行政を専攻していたのだが、一方で「日本近現代史」のゼミに入り、戦没者の慰霊・追悼のあり方、東京裁判、歴史認識の問題などのデリケートな話題について日々激しく議論していた。
4年生になって卒業論文のテーマを決める時「アナウンサーになるんだったら、アナウンサーの歴史を研究してみてはどうだろう?ちょうど近現代史の分野だよ。」と4年間ご指導頂いた教授にアドバイスを頂き、私は法学部らしくないと言うか学部不明の『日本アナウンサー史』を提出し、無事に(なんとか)大学を卒業したのである。

今読み返してみると「おやおや?思ったより悪くないですねぇ。」
需要があるか分からないが、日本にアナウンサーという職業が誕生して100年となるのを前に筆を加えて連載してみようと思い立った。
というわけで、第1回のきょうは、記念すべき第一声を飾った京田武男アナウンサーである。

「アー、アー、聞こえますか。ジェーイ オーウ エーイ ケーイ、ジェーイ オーウ エーイ ケーイ、こちらは東京放送局であります。今日ただ今より放送を開始致します。」
関東大震災から2年後、1925年3月22日午前9時30分、芝浦高等工芸学校(現千葉大学工学部)の一室に設けられた仮設スタジオから、京田武男アナウンサーの声が関東平野全域に響き渡った。澄み切った青空に祝福されて、記念すべき日本の放送が幕を開けた瞬間である。
この日を挟んで普通選挙法の他、治安維持法も成立しており、放送は新しい時代への希望と、厳しい言論統制の中で誕生したとも言える。

栄えある第一声を飾った京田武男アナウンサーは、東京日日新聞の運動部で記者をしていた。
1920年11月2日、世界最初の放送局であるアメリカ・ピッツバーグのKDKAが開局するやいなや、アメリカのラジオ熱は海を越えて日本へ到達。
ラジオが持つ速報性に目を付けた朝日、日日、報知、大阪時事、大阪毎日、大阪朝日、名古屋の新愛知などの新聞各社は「必ず訪れる無線放送の時代に乗り遅れてはならない」とラジオの公開実験を繰り返していて、京田はこの時もマイクロフォンの前に立っていたのである。
当時、東京日日新聞から小野賢一郎が東京放送局(現NHK東京放送局)の理事に就任し、京田は小野の誘いで東京放送局へ移ってきたという。
体格が良く力強い声の持ち主であった京田だが、江戸っ子弁がなかなか抜けず「日用必需品」の「ヒツジュヒン」が「シツジュヒン」としか発音できずに苦労したそうである。(余談だが大阪では逆で「質屋」の「シチ」が「ヒチ」としか発音できない人が多い)

我が国で初めてアナウンサーとしてマイクの前に立った京田武男は、その後わずか10ヵ月程でアナウンス職を離れたという。

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