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シリーズ日本アナウンサー史 番外編 ラジオ誕生までの物語

1906年のクリスマスイブ、アメリカ・マサチューセッツ州から突如として「O holy night」の演奏が発信された。
レジナルド・フェッセンデンによる、世界最初のラジオ放送である。
フェッセンデンはエジソンが創設したゼネラル・エレクトリック社で電気技師を務め、その後パデュー大学で電気学の教授となった。
1900年には初のラジオ通信実験に成功し、電動式の高周波発信機を開発するなどしてラジオの改良にも尽力した。

そして1906年12月24日、フェッセンデンは手作りの放送局からクリスマスの挨拶を述べ、ヴァイオリンと歌で「O holy night」を自ら演奏。ヘンデル作曲の「クセルクセスのラルゴ」のレコードを流し、聖書を朗読した。フェッセンデンは、ラジオ開発の父であり、世界初の番組プロデューサーであり、DJでもあったと言える。
そして、この日の放送は「世界初のクリスマス特番」でもあった。

フェッセンデンの実験の後、世界中のアマチュア達がそれぞれ実験を繰り返したが、初の商業放送局の設立は14年後の1920年11月2日 アメリカ・ピッツバーグにKDKAが開局するまで待たねばならない。ちなみに初めて伝えたニュースはハーディング大統領の当選だった。

アメリカでのラジオ人気は瞬く間に世界中を飲み込んだ。イギリスBBC、ロシアのコミンテルン放送局が相次いで開局し、日本の東京放送局の開局はその次にあたり、世界的には早いスタートだった。

東京放送局の開局に際して、意外なことに当初は民営論が支配的であったが、1920年代の日本では社会運動取締りの風潮が高まっていたため民営論は退けられた。逓信省が放送開始に向けて調査に乗り出し、1923年8月末の段階で完了していた。
そんな矢先に発生したのが関東大震災。既に揃っていた放送局設立のための全ての資料が焼失してしまう。
もし関東大震災時にラジオがあったなら、デマによる社会不安は起こらなかっただろうと言われているし、もしも関東大震災が起こらなければ東京放送局の開局はもっと早かったに違いない。

震災の復興もようやく軌道に乗ってきた1925年、後藤新平を総裁に迎えて、いよいよ社団法人東京放送局が発足する。
本放送の開始は1925年3月1日の予定だった。
ラジオ放送開始の機運は既に醸成されていたため、準備作業は順調に進むかに見えたが、購入を予定していた放送送信機を設立準備中だった大阪放送局に先に買い取られてしまう。
この放送送信機はウエスタン・エレクトリック社製で、日本にたった1台しかなかった。1日からの放送開始は絶望的。それでも東京放送局はあきらめなかった。
東京市電気局電気研究所が所有していたゼネラル・エレクトリック社製の無線電信電話機を借りて、それを改造して放送に使おうとした。
借り物を改造してはいけないと思うのだが…それほど大変な情熱であった。

しかし、逓信省は放送用設備が不十分であることを理由に、1日からの放送は時期尚早であると判断して本放送開始の許可を出さなかった。

何としても日本初のラジオ放送を行いたい東京放送局は「試験送信」を申請し、根負けした逓信省は遂に首を縦に振った。
兎にも角にも、東京放送局は半ば強引にではあったが当初の予定通り3月1日から電波を出し始めた。3週間の試験送信を経て逓信省の検査に合格し、京田武男アナウンサーの第一声で3月22日に本放送がスタートした。

第一声を争った大阪放送局だったが、高麗橋にあった三越呉服店大阪支店の屋上から放送を開始できたのは6月1日のことである。名古屋放送局は7月15日に放送を開始した。
そして、三局が合併して社団法人日本放送協会が設立されるのは翌年8月6日のことだが、それはまだ先の話である。


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