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ロッキーVSドラゴ:ROCKY IV

ディレクターズ・カットや完全版などと呼ばれるバージョンは果たして、オリジナル版や劇場初公開版と同一作品とみなして良いのかという問題がある。

「スター・ウォーズ」旧3部作は1977〜83年にかけて公開されたオリジナル版ではなく、一部シーンが差し替えられた1997年公開の特別篇がメイン・バージョンになっている。しかも、その後、ソフト化されたバージョンではさらに手が加えられている。

「未知との遭遇」は今では77年のオリジナル版も見ることは可能となっているが、長いこと80年公開の特別編がメイン・バージョンとされ、オリジナル版は封印状態だった。

こうしたメイン・バージョンが差し替えられた作品は、その作品のファンがどう思っていようと関係なく、オリジナルでないものの方が多くの観客・視聴者が目にするバージョンとなってしまう。

こうなると、“オリジナル版って何?”となってしまう。

また、こうした別バージョンの中にはオリジナル版よりも遥かに尺が長くなっているものもある。

「ロード・オブ・ザ・リング」3部作は全ての作品でスペシャル・エクステンデッド・エディションと呼ばれる長尺版が発表されている。
完結編の「王の帰還」はオリジナル版でも3時間23分(本稿における上映時間はKINENOTE基準)というかなりの長尺だが、スペシャル・エクステンデッド・エディションは4時間10分と50分近く長くなっている。

アカデミー賞の規定では40分以上が長編扱いとなる。つまり、「王の帰還」のスペシャル・エクステンデッド・エディションは長編映画1本分長くなっているわけだから、これをオリジナル版と同じ作品として扱って良いのかと思ったりもする。

その一方でオリジナル版よりも短くなった作品もある。
フランス映画「美しき諍い女」は3時間58分もある作品だ。しかし、この作品のディヴェルティメントと呼ばれるバージョンはかろうじて半分より長いくらいの尺になっている(KINENOTEには登録されていないが、Wikipediaには2時間5分、Yahoo!映画では2時間11分と記載されている)。
普通の映画1本分、長さが違う作品を同一作品と呼んで良いのかと言いたくなる気持ちも分かる。しかも、この作品はオリジナル版とは異なるテイクを使って編集されているのだから、尚更、別作品に思えて仕方ない…。

もっとも、日本の地上波では映画をカットして放送するのが当たり前だ。エンドロールをカットしておきながら、本編ノーカットなどといった意味不明な言葉でアピールするくらいだからね…。
なので、地上波で映画を見ることを好む層はそこまで、短縮版をオリジナルとは別作品とは思わない人も多いと思う。
テレ東「午後のロードショー」の前身ともいえる「2時のロードショー」なんて、1時間半枠(正確には1時間25分枠)だからCMなどを除くと正味はたったの1時間9分しかなかったんだよね。
1時間40分程度の標準的な長さの映画ですら、30分程度カットされているわけだからね…。2時間半くらいの大作だと半分以下になっているわけだし…。
だから、地上波での映画鑑賞が多い人は、バージョン違いなんて気にしていないのかも知れない…。

個人的には、一部シーンの差し替えがあろうと、長くなっていようと、短くなっていようと、別バージョンはオリジナルと同一作品だと思っている。

しかし、そんな自分でも本作「ロッキーVSドラゴ:ROCKY Ⅳ」に限っては1985年度作品「ロッキー4/炎の友情」と同一作品と呼んで良いのか非常に迷ってしまう。

今回のバージョンの原題は「ROCKY IV: ROCKY VS. DRAGO」だ。オリジナル版はただの「ROCKY Ⅳ」だったので、原題でみれば、サブタイトルをつけただけだから、単なるディレクターズ・カットと思えるかも知れない。

しかし、邦題は元々、「炎の友情」というサブタイトルがついていた。それが削除され、しかも、「ロッキー4」の文字がカタカナ+アラビア数字ではなく、英語+ローマ数字になっているので、日本のファン的には尚更、別作品に思えてしまうのではないだろうか。

しかも、1時間31分のオリジナル版に42分もの未公開映像を加えたのに、本バージョンの上映時間は、オリジナルとほとんど変わらない1時間34分なんだよね。つまり、半分近くは異なる映像となっている。

それって、ディレクターズ・カットとか完全版という類ではないよねって感じだ。

ピーター・ジャクソン監督が1970年のザ・ビートルズのドキュメンタリー映画「レット・イット・ビー」撮影時の素材を使って、「Get Back」という異なる内容のドキュメンタリーを作ったけれど、ほとんどそれに近いと思う。

そもそも、スタローンが今回、このディレクターズ・カット版を作ろうと思ったきっかけは、米国でも日本でも「ロッキー4/炎の友情」はシリーズ最大のヒット作であるにもかかわらず(スピンオフの「クリード」シリーズを含む)、批評家からは酷評され、ラジー賞のワースト作品賞候補となり、さらには、シリーズのファンの中にもワースト作品と言う者がかなりいるからだと思う。

批判の理由は明白だ。
批判する連中はいかにも80年代なノリが嫌いなんだよね。


「炎の友情」初公開当時、30代〜40だだった世代からすると、80年代の映画や音楽はポップでキャッチーで大衆的だから、60年代や70年代の作品と比べると軟弱なものに思えてしまうらしい。

だから、大物アーティストや若手アーティストの楽曲を何曲も使い、それらの楽曲が使われるシーンはMV(当時、洋楽ではビデオ・クリップ、邦楽ではプロモーション・ビデオと呼んでいた)風に撮影・編集されているような映画は彼等にとっては嫌悪の対象でしかなかった。

「炎の友情」も80年代にサントラ映画とかMTV映画と当時のオーバー30に揶揄された作品の一つだ。

前作「ロッキー3」に引き続き使われていたサバイバー“アイ・オブ・ザ・タイガー”を除いても、サントラからは4曲ものヒット曲が生まれている。

最大のヒットは前作に引き続き登板したサバイバーによる“バーニング・ハート”で最高位2位を記録。
ジェームス・ブラウン久々の大ヒット曲となった“リビング・イン・アメリカ”は4位。
ソングライターとしてはベニー・マードーンズ“イントゥ・ザ・ナイト”のヒットもあるけれど、アーティストとしては一発屋扱いのロバート・テッパー“ノー・イージー・ウェイ・アウト”が22位。
シングル・カットされた4曲の中では唯一、2回使われている(本編とエンド・クレジット)ジョン・キャファティーの“炎の友情(HEARTS ON FIRE)”が何故か4曲中で一番ヒットしていなくて76位といった感じだ。

“リビング・イン・アメリカ”はアポロが命を落とすことになるドラゴとのエキシビジョン・マッチのオープニング・セレモニーの場面で使われ、そのセレモニーに登場するアーティストとしてJB本人が出演している。
このシーンでアポロが調子こいてノリノリで踊ったり、ソ連人(英語圏では当時もロシア人と呼んでいたが)を差別するような発言を繰り返していたから、命を落とすことになったんだよと言われても仕方ないシーンに使われた曰く付きの楽曲だ。
余談だけれど、このシーンだけを見ても、黒人って、自分たちは差別されていると主張しながら、実は誰よりも差別主義全開な自分勝手な人たちだというのがよく分かるよね。

“ノー・イージー・ウェイ・アウト”は、親友アポロ(かつての敵・ライバルが親友になるという、いかにもジャンプ漫画的な関係)の死を経て、仇打ちを決意するも最悪の妻エイドリアンに理解されず、傷心状態で街中を車で吹っ飛ばすシークエンスに使われている。
しかも、そのシークエンスにはこれまでのシリーズ(「炎の友情」を含む)の名場面が次から次へとインサートされ、楽曲自体もほぼフルコーラスで使われている。MVと言われも仕方がないシークエンスだ。

“バーニング・ハート”はロッキーがソ連に到着するシーンで使われている。当時の米ソ(東西)冷戦を背景に、米国人には人間性があり、ソ連(ロシア)の人にはそれがないと言っているような、要はプロパガンダと言ってもいいシーンで使われている。

本編とエンド・クレジットで2回流れる、推し曲の“炎の友情”に関しては言わずもがなといったところか。

このように、いかにも80年代的な使われ方の4曲が流れるシーンはカットされていないんだよね…。

本作が「炎の友情」と大きく変わったと言える点は2つあると思う。

一つは、始まり方だ。
「炎の友情」でも、本作でも前作「ロッキー3」の振り返りから始まることは変わらない。
しかし、本作ではやけに丁寧に前作を振り返っている。ミスター・T(役名はグラバー)に敗れ、アポロにハングリー精神(アイ・オブ・ザ・タイガー=虎の目)を取り戻せと諭される場面もきちんと見せている。

にもかかわらず、「炎の友情」ではオープニングに使われていた“アイ・オブ・ザ・タイガー”が、本作の冒頭では流れないんだよね。
何故か、エンディングからエンド・クレジットにかけてのところで流れていたけれど。
そして、この“アイ・オブ・ザ・タイガー”が流れているエンド・クレジットの最中に退席していった観客がいたけれど、こいつは何しに「ロッキー」シリーズの映画を見に来たんだ?
そういえば、以前、シリーズ1作目を午前十時の映画祭で見た時に、テーマ曲がかかるシーン(勿論、階段を駆け上がっていく場面を含む)の最中に電話だかトイレだかで中抜けしていた奴がいたが、こいつも何しに来たんだって感じだったな。
それはさておき、エンド・クレジットの使用楽曲クレジットで、レコード会社名がソニー・ミュージックという表記になっていたのが、最近作ったディレクターズ・カット版って感じで面白かった。ソニーがCBSを買収したのは80年代末だからね…。

そして、もう一つの大きな相違点はセレブになったロッキー一家の描写が減ったことだ。
確かに、「炎の友情」に登場した家事ロボットに関しては“なんじゃアレ?”という声が多かったのも事実だし、80年代の映画や音楽が大好きな世代でもあのシーンはいらないと思っていた人が多いのも事実だ。
でも、セレブになった描写が呆れるほどあったからこそ、ファイターとしての名声を取り戻そうと焦るアポロと、そのアポロの意向に対して曖昧な対応しかしないロッキーの対比が印象付けられていたわけだし、そのアポロの心情をくめなかったのは自分がセレブになってしまったからだということを親友アポロの死によって悟ることができたわけなんだよね。そして、セレブになる前のことを思い出したからこそ、ソ連でドラゴと戦い、その敵地で血と汗と涙の訓練をやろうという気になったわけだからね。
なので、セレブ描写を減らしてしまい、単なるアポロの仇打ちストーリーみたいになってしまったのはどうかという気もする。

まぁ、1作目から3作目までの間にリアルタイムでシリーズのファンになった人からすれば、この再編集版の方が好みなんだろうけれどね。
というか、ハングリー精神を失いつつあるロッキーという描写は3作目でもやっていたから、またやる必要はないって思いもあったのかも知れないけれどね。
だから、3作目の振り返りが長くなっていたんだとは思う。ハングリー精神の欠如は振り返りでやるから、本編で繰り返す必要はないって感じなのかな。

ただ、家事ロボットのシーンをカットしたことによって、80年代から90年代半ばにかけて、サントラ男として活躍したケニー・ロギンスとグラディス・ナイトという謎な組み合わせによるコラボ曲“ダブル・オア・ナッシング”も聞けなくなってしまったのは残念だな…。
まぁ、これが本当に「フットルース」や「トップガン」、「オーバー・ザ・トップ」などのサントラからヒット曲を連発したアーティストの新曲なのかと思うほど、音量も低く、かかっている時間も短い使われ方だったけれどね。だから、シングル・カットもされなかったしね。

それにしても混んでいたな。しかも、大半が自分より年上っぽい感じの人ばかり。とはいえ、高齢者は少ない。今の60代以上は当時、「炎の友情」を酷評していた連中だからね。なので観客は50代と思われる連中ばかりだ。
でも、今日は金曜日だぞ。お盆休みもほとんどの企業では終わっているよね?
まだ夏休み中の、学生・生徒・児童・園児が見たがるような映画なら混雑するのも分かるけれど、ディレクターズ・カットとはいえ、80年代映画のリバイバル上映だからね…。
なのに、昼前の回が混み合っているってどういうことだ?仕事はどうした?
もしかすると、この人たちって、いわゆるオフィスや工場で働いている人ではないのでは?
つまり、クリエイティブ職などカタギでない人たちなのでは?自分もその一人だしね。
40〜50代のクリエイティブ職の人間って、80年代映画・音楽をいまだに愛しているしね。

そういえば・隣に人がいるからって勝手に別の席に移ろうとしていた奴がいたが(その席に人が来たので断念したようだ)、こういう奴がいるってことは何年も映画館に来ていないようなオッサン・オバサンが駆けつけていたってことかな?

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