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グレタ・ガーウィグの正体を掴めるか。

シアーシャ・ローナンの奔放な身体が物語とは関係のない動きを不意に見せるとき、グレタ・ガーウィグの映画は突然輝き出す。ガーウィグの処女作である『レディーバード』からその奔放さは目を見張るものがあった。彼女の身体は映画の中で語られる主題と交わり、青春時代の輝きとなってスクリーンに映写されることになる。とはいえ『レディバード』のフレームで駆け回るシアーシャが持つ時間の感覚は、おそらく編集前と編集後で大きな違いがあったのではないだろうか。完成された映画はシアーシャの顔を含めた魅力的な身体を余すところなく凝縮しているが、一方で容赦無く彼女の動きの機微を切っていくような残酷さも孕んでいた。それはガーウィグの映画への真摯な態度、余計な余韻ではない圧縮(省略という感じでもない)によってシアーシャをより際立たせていく振る舞いなのかもしれない。そのように捉えることも可能かもしれないのだが、『レディバード』を観たときに不意に頭をよぎってしまった「編集前のラッシュが見てみたい」という邪悪な言葉が、ガーウィグの映画に接するとき、下り階段を踏み外してしまうような唐突さとともに私の頭をよぎる。いや、正しくは「編集前のラッシュが見たい」という言葉ではない。編集を抜きにした映画など現代ではあり得ない。映画が最終的に編集という具体的な作業を経て”映画”という形になるのなら、私もまたこの映画に対して誠実に接しなければならない。つまり、私は単にこの映画のショットとその連なりに対する編集を”短い”と思ってしまったのだ。一つのショット、あるいは複数のショットにまつわる身体によって持続する時間をもっと見たいと思ってしまった。この映画の撮影現場での時間感覚は編集後の時間にはなくなってしまったようにさえ見える異質な輝きも持っていたのではないかと邪推してしまうのだ。

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ガーウィグが監督2作品目として「若草物語」を選択したことはシアーシャとのコラボレーションを前提に考えるならとても納得できる。様々な媒体で何度も創作されてきたこの物語は、家族の物語を安定的に語る点で、そして古典であるにもかかわらず現代的な主題を導入し語り直せる点でこれほどふさわしいものはないだろう。「若草物語」という安定した物語から映画になる過程でシアーシャの身体を導入すること。ガーウィグ/シアーシャ/若草物語というトライアングルは絶妙なバランスで成り立つ青春と家族の映画になり得た。なり得た、いや、確かになっていた。この映画の物語が担うエモーションは雨の馬車が駆けることで見事に昇り詰めた。シアーシャもまた前作同様に迸っていた。冒頭で駆け抜ける彼女から始まり、ティモシー・シャロメとのダンスフロア外での悪ふざけも4姉妹の中でのおしゃべりも、その時間を見ているだけで映画が輝いていた。だが映画が終わった後に私の頭の中を覗けばやはり「編集前のラッシュが見てみたい」という不埒な言葉が行き場もなく漂っていた。映画の時間を自身の運動によって持続させてしまう力を持ったシアーシャローナンと、彼女のポテンシャルを遺憾無く発揮させられるグレタガーウィグの仕事を、一つのショットあるいはその連なりの中でもっと見たいと思ってしまう。過去と現在を頻繁に行き来し”語る”ために必要な要素が多いこの映画においてもなお、それぞれの出演者が見せる躍動と、一方で静かにフレーム外をの何かを見つめるそれぞれの”顔”をガーウィグは見せてくれる。この対比だけで彼女の映画は美しい。編集という映画を最終的に形作る作業の中にガーウィグの正体を見るにはやはり時期尚早なのかもしれない。ショットに対する潔さと見つめるという欲望の狭間で私はまだグレタ・ガーウィグという映画監督の正体を掴めずにいる。

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