三分の一の伸びしろ
水って美しいんだなぁ
写真に撮るとそう思えてなんか少し幸せです。
さて、夏が強制終了されるかのように、微妙なお天気の日々ですね。台風も、長居するわ、何度も来るわ。
私は日常で楽しいことを見つけるのが割と得意だと思っているのですが、雨はどうにもこうにも嫌いで、(足元を気にして)下を向くという動作がどうにもこうにもテンションを下げるんですね。
そんな雨を、どうにかこうにか好きになれないものかと、私は雨を好意的に捉える人や言葉に引き寄せられる節があります。
「雨は誰にでも平等に降る」
「雨が降ったら使いたい傘がある」
雨への憂鬱に光を差してくれた言葉です。
それぞれ映画監督と脚本家の方が言っていました。
そして先日。
歩いていたら雨が降って来て、おいおい勘弁してくれよと憂鬱になりかけていたところ、そういえば、雨の写真を撮ったことがなかったなぁと思うに至り、シャッターを押してみたのでした。
「雨」じゃなくて、雨を作る一雫一雫がそれぞれ独立した存在として感じられるというか。個を見ると突然愛おしくなるというか。...雫、大好きだ!
良いことが隠れていそう感がね、あるよね。(平常心)
フィルムの粗さは、なにかストーリーを隠してる。
ただこれは、通称「エモい」になりがちなものでさ。
私はエモいという言葉がきらいです。
仕事をしていて「エモい画が撮りたいんだよね」「エモい映像になりました」などと言われると、秒速で心のシャッターが降ります。
エモいは、「好きな食べ物は何ですか?」に対して「野菜です」と答えるようなものだと思います。語られるべき人参やナスやオクラが沢山ある。私はそれを知りたいし、それをお話したいんだ。
だから、そういった数多のことを「エモい」で片付けられると、アナタトハ ココマデ。となってしまうし、つい自分で言ってしまった時はひどく凹み、これでもかというくらい言葉のオプションを付けまくります。
言葉も、道具も、
便利って楽しいを見えなくしがちな気がします。
とすると。
雨はどちらかといえば不便を強いられるかと思うので、楽しいのポテンシャルが隠れているのかな、と考えられなくもないですね。
雨の日は、東京では、1年に110日前後あるみたいです。