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「良い人」をやめた

最近、「良い人」であろうとするのをやめた。

といっても、別に人に対して煩雑になったとか、気遣わなくなったとかではない。
単純に「自分を犠牲にして誰かのためになろうとすること」をやめただけだ。

「良い人」であることがコンプレックス

自分で言うのも変だけど、わたしはけっこう「良い人」だと思う。

誰かがやらなきゃいけないけど誰もやらない仕事は率先して引き受けるし、「あの人ちょっと大変そうだな」って人がいたら「これならわたしできますよ」と声をかけるし、いつもと違う様子の友達がいたら「最近どないよ?」と世間話くらいの雰囲気で話しかける。
迷う時もあるけれど、見過ごして後悔することがあまりにも多かったので、最近までは気付いたことはできるかぎりするようにしていた。

「れんちゃんがいれば大丈夫」みたいに思ってもらえることもあって、嬉しくて、また頑張ろうと思えた……のだけど。最近は、すこし変わってきている。

「良い人」であろうとすることがコンプレックスなように感じてきたのだ。

好きでやってきたこと、だけれど

目の前の人が落とし物をして、それを小走りで届けるくらいならまだ良い。でも、周りに気遣うあまり自分の休日がなくなるとか、そういう自分を犠牲にするような行動を取ってしまうこともある。
誰かが喜んでもらえるのはもちろん嬉しいけれど、そういうのが重なるとだんだん「いま、なんのためにやってるんだ……?」と感じるようになる時も。

そこで休憩できたらいいのかもしれないけれど、周りに「れんちゃんがやってくれる」みたいなイメージがつくこともあって、断ると「え、やってくれると思ったのに」と言われたり、わたしがやるのが当たり前になったり。
どんどん断りにくくなって、自分の好きでやっていたものが、義務のように思えてきてしまう。

素直に正直に生きたい

趣味が増えて、仕事も充実して、少しずつ「やりたいことにかかる時間」と「実際にかけられる時間」の間にギャップがうまれてきた。これまではなんでもなかったタスクが思わぬ圧迫材料になることもあるし、休日が平日みたいになってしまうこともある。
そんな日々に気付いて、突然「素直に、正直に生きたいな」という考えが浮かんだ。

気付いてなにかをすることは、もともと好きでやっていた。褒められるのが嬉しくて、誰かの役に立てるのが嬉しくて、どんどん行動のエネルギーが湧いてきた。

でも、好みは移ろうものだ。以前は小説が好きだったけど、いまは漫画が好きだ。苦手だったナスは好きになったし、いまはとろろ蕎麦よりせいろ蕎麦のほうが好き。
ものに対する好みのように、行動に対する好みも変わっていくのだと思う。

いまのわたしが「正直に生きたい」と思うのなら、その好みが変わるまで、その通りに動いてみるのも悪くない。

それでもやっぱり動きそうになる時がある

人よりも小さなことに気付きやすい傾向はあるので、これからも「とはいえやっぱり動きたい!」と思う時もあるだろう。
そういう時は、その気持ちのままに動けばいい。「素直に生きる」とは、そういうことだと思う。

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