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感謝にエネルギーをもらい、称賛で襟を正し、助言に覚悟を持つ。

以下の記事は、わたしへの取材を基に執筆されたものである。

主題は「不登校の子どもがインターネットで助けを求める時に気を付けてほしいこと」なのだが、それに付随して、わたし自身の経験や、また、ネット上やいろいろな場で出会う「弱さを許せない人」との接し方についても言及していただいた。

この記事は、2019年5月9日現在、16,212名の方が読んでくださっていて、Yahoo!ニュースにも掲載されると、869件のコメントが寄せられた他、Twitter上でも多くの方がシェアしてくださった。
Yahoo!ニュースのコメントは匿名性なこともあってそれに対する返信は控えたのだが、Twitter上でシェアしてくださった方に関しては、わたしが見つけられたものにはすべて返信をした。

そのことを話すと、友人から「好意的じゃないものもあるのに」と不思議がられたので、その行動に至った理由と、"好意的じゃないもの"に対する時のわたしの姿勢について書こうと思う。

小さい頃から、よく気付く子どもだった。

小さい頃から、よく気付く子どもだった。
ゴミ袋がいっぱいになっているとか、誰かのものが落ちているとか、誰かが話そうとしたのにタイミングを逃して話せなかったとか、あの人はどうやら道に迷っているようだとか、今日のあの子は少し調子が悪そうとか。
どちらかというと人見知りだった幼少期には、気づきながらもそれを見逃し、後から「あの人は大丈夫だったかな……」「やっぱりあの時言っておけば……」と思うことがほとんどで。
でも、いろいろな人のおかげで人並みの自信が身につき、コミュニケーション力もそそこそこついてきた今は、気付いたら気付いた分、できる限り行動するようにしてきた。

前を歩いた人がハンカチを落としたら、拾ってホコリを落として手渡す。
道端で自転車が倒れていたら、風に倒されないよう場所を調節して立てておく。
道に迷っている人がいたら、地図を出しながら説明するし、英語しか通じなければカタコトの英語でどうにか伝えようとする。
流しにコップが1つ置いてあったら、さらっと洗って水切りのほうに置く。

なぜ、人のために動くのか。なぜ、自分のために動くのか。

「どうしてそこまで」と言う人もいる。
どうしてそこまで人のために動くのか、と。

でも、わたしからすれば「自分のために動けること」が疑問なのだ。
もちろんわたしも、自分のために何かすることはある。
最近買ったミラーレス一眼カメラは間違いなく自分が手に入れたかったからヨドバシカメラまで出向いたのだし、GW中に9本映画を観たのは誰かに薦められたからではない。

ただ根本的なものとして、わたしは「自分のため」がモチベーションに結びつきにくいのだ。
高校受験のための勉強は30分だって集中力がもたなかったのに、同級生に教えるための勉強は何時間だって楽しかった。自分の飲食にはほとんどこだわりがないけど、誰かと食事に行くなら好みをリサーチしたうえでお店をいくつかピックアップし、メニューの値段や店内の雰囲気もチェックしたうえで、特色の違う、一押しのお店を3件紹介する。自分の欲求がもとで書き始めた文章はいつまで経っても完成しないのに、誰かに届けたくて書き始めた文章はあっという間に一通の手紙になる。

だからわたしは、「人のために動ける」のではなく、「人のためでないと動けない」のだ。
自分のために行動することもあるけれど、できればそれも誰かのためになってほしい。学んだことは誰かの学びに活かしたいし、漫画や映画を楽しんだ後はだいたい「あの人が好きそうだな……」とか「あの人に読んでもらいたいな」とか考えている。

感謝からはエネルギーをもらえる。そしてまた別の誰かへと繋ぐ。

他者を軸に、些細なことへ目を向け、気付いたら行動に移す。

そういうことを日常の中で繰り返していると(気付かれないことのほうが多いのだが)気付いた人や相手が「ありがとう」「助かるよ」と声をかけてくれることもある。
もちろんそれはとびきり嬉しくて、ついニヤニヤしちゃうし、その結果「思ったより子どもっぽいんですね」と言われたりもする。恥ずかしい。

なんともありがちな表現で、今更こんなことを言うのは恥ずかくも思うのだが、やはり「ありがとう」という言葉は、いいものである。
言われた側はもちろん、言った側も気持ちが良い。思ったらすぐに伝えられるし、後から「言わなきゃよかった……」と凹むこともない。そして何より、労力や手間がかからない。
双方の気分を良くして、1日をちょっと幸せにできるのに、コストがかからないのだ。なんたることか、そんな喜ばしいことがあっていいのだろうか。

そして、感謝を伝えてもらえればもらえるほど、わたしの活力になる。そしてわたしはまた誰かのために行動し、感謝がうまれる。(お節介だったり勘違いだったりでうまれないこともあるが、相手の迷惑にはならない程度に留められれば、わたしは自分でやりたくてやっているだけなので、ただゼロに戻るだけ。むしろ"人が自分のために行動してくれた""自分は人のために行動した"という事実は、仮にそれが不必要な行動だったとしても、少し心をやわらかくするのではないだろうか。)そしてその感謝が、またわたしの活力になり、わたしの周りには少しずつポジティブなエネルギーがあふれ出してゆく。

ちなみに、わたしが起こした行動が気づかれなかった時にも、わたしの中には「人のためになることができたかな」という、ちょっとした自信のような、自負のような感情が芽生える。
人からもらえる感謝のエネルギーに比べればそれは見劣りするかもしれないが、わたしは、ただそれだけで満足するので、「せっかくやったのに感謝されなかった!!ぷんぷん!!」とは思わない。
むしろ、いかに人に気付かれないように遂行するかを楽しんでいる節もあるし、単純に自分がやりたいくてやっているだけだから、何も問題ない。

称賛を得た時は、襟を正す。目の前のあなたを大切にするために。

感謝とは別に、わたしがよくいただく言葉が、もう1つある。
それは、「すごいね」とか「尊敬する」とか「見習いたい」とかいったような、「称賛」だ。("褒め称える"という意味と、これらの言葉の発言をした人の意図が必ずしも重なるわけではないので、正確に言えば「称賛や共感や応援といった、わたしの活動を後押ししてくれるような言葉」なのだが、便宜上ここでは「称賛」とまとめる。)

「中学生時代の不登校の経験から、21歳でフリースクールを立ち上げて、代表を務めています」
そんな話をすると、9割以上の方は、「若いのにすごいね!」「応援しているよ」「協力できることがあったら言って」などなど、あたたかい声をかけてくださる。
そして、そういう声をかけていただくたび、称賛をもらうたびに、わたしは「襟を正さなくては」と思う。

人は、自分が正しいと思うことをしていると、ついそうでない情報・意見を除外したり、つい頑張りすぎて空回りしたり、つい目の前にいる人の目を見なくなったりする。ことがある。
わたしは高校時代にそれで随分苦い思いをしてきたので、共感・応援してもらえた時こそ、「そうでない声もきちんと聴かなければ」「こういう時こそ一歩立ち止まって考えなければ」と自分を落ち着かせるのだ。

今回の記事が公開された際にも、たくさんの方からメッセージが届いた。
自分の言葉が誰かの心に届いたことは本当に嬉しかったし、自分が考えている方向性が間違っていないことも実感できた。

だからこそ、思う。
目の前にいる人を、手を伸ばしたら届くところにいる人をほったらかしにして、先ばかりを見据えてはいけない。
慢心してはいけない。油断してはいけない。

目の前の人を、きちんと見つめるために。
目を合わせて、歩幅を合わせて、呼吸を合わせて、進んでいくために。

称賛をいただいた時こそ、一歩立ち止まって、隣の人を置いてけぼりにしていないか、周囲を見渡すことが大切なのだ。

1割の「助言」に、どう向き合うか。

「中学生時代の不登校の経験から、21歳でフリースクールを立ち上げて、代表を務めています」
そんな話をすると、9割以上の方は、あたたかい声をかけてくださる。

9割の人が称賛・共感・応援してくれるということは、1割の方からは別の声が届くということだ。

例えば、「やっぱり不登校は甘えだと思う」と言う人。
例えば、「税金を納めるなら不登校でもいい」というように、何かの条件付きで不登校を許容した人。
例えば、それらのコメントに対して怒りをあらわにする人。

共感してもらえるのはやっぱり嬉しいけれど、だからといって、共感されないことが悲しい、というわけではない。
だから、上記のような意見を聴いて、わたしが落ち込むことはなかったし、「なんで理解してくれないの!」と苛立つこともない。
むしろ、これらの意見を目にしたことで、かえって覚悟が生まれた。

不登校を含め、学校や家で悩んでいる子どもたちにとっての一番の味方であり続ける覚悟。
どんな意見も、それが「意見」である限り、反発したり拒絶したりせず、その意見の真意までしっかりと学ぶ覚悟。(「意見」ではないもの、つまり「攻撃」や「人格否定」といったものに対しては、学ぼうとは一切しない。自分の身と心を守ることが最優先。)
自分が目指している社会・世の中を目指し続ける難しさを理解した上で、それでも目指し続けるという覚悟。

それがわたしの中に生まれただけでも、1割の「助言」をいただけて良かったというものだ。

Twitterという文字数の限られた世界で、自分と違う意見を持つ人と意見交換することはとても難しいし、労力をかけても報われないことだってある。だからわたしは、「その意見はわたしとは違うなぁ」と思っても、わざわざ表明せず、スルーして済ませてしまう。
だからこそ、異なる意見をくれる人は、貴重なのだ。有難い。

140字に区切られた世界で、相手の意見をその真意まで汲み取り、自分の意見を誤解なく伝えるのは、容易いことではない。
いらないだろうと思って省いた内容が実は重要だったり、些細なワードの違いでまったく逆方向の意見として捉えられたりする。

でもその分、短文でのやりとりになるからこそ、その人の持っている感情や、その人の人格、常日頃の価値観が、見えやすいのかなとも思う。
見えやすいだけで、別に見えないこともあるし、見えたものが見間違いだったこともあるけれど。

少なくとも、今回の件でいろいろな方のストレートな意見を目にできたことは、本当に有難い経験だったと思う。
そして、たくさんの人の「"不登校"に対するイメージ・評価」「"弱さを許せない"という言葉について考えること」を直接聞けたのは、大きな学びとなった。

記事をシェアしてくださった人、自分の意見を表明してくれた人、わたし宛にメッセージをくれた人。
皆さん、本当にどうも有難う。今のあなたが、わたしの意見や考え方に対してどう考えているかは分からないけれど、どうか、これからのわたしを、わたしたちの活動を楽しみにしておいてほしい。

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写真は、わたしが今一番愛している愛犬と出かけた時の写真。
彼女はいつも全力で、身体全体で感情を表現してくれる。
甘えん坊で、寂しがりで、食べることが大好きで、頭が良くて、本当に分かりやすい。
言葉ではなにも言わないのだけれど、言葉を喋れる人間以上に、多くのことをわたしに伝えてくれているかもしれない。
彼女が出迎えてくれるだけで1日の疲れは吹っ飛ぶし、少し憂鬱な日も彼女が隣に座ってくれるだけでハッピーな1日に変わる。
感謝も称賛も助言も一切口にしないのに、これほどのポジティブなエネルギーをわたしに与えてくれて、しかも彼女はそんなことへでもないかのように平然と隣で甘えてくるのだから、感謝よりも称賛よりもなによりも、彼女は最強なのかもしれない。

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