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記憶力

 ……時代は、ずいぶん変わったと、思う。

 昔は人というものが、多すぎた。

 たくさんの人がたくさんの人と共に生きていくうえで、個性というものは比較的…蔑ろにされていたような、気がする。

 出来の良い気の強いものが成功を収める一方で、個性を持つ気の弱いものは大多数の中で埋もれる場面が多々あったように感じる。

 昔は……今の時代のように、自分の意見を全世界に発信する手段は、多くなかった。

 狭い世界の中で言葉を出し、狭い世界の中でその言葉を肯定されたら、大きな世界に羽ばたくきっかけになった。

 狭い世界の中で言葉を出し、狭い世界の中でその言葉を肯定されても、大きな世界に羽ばたくことができないものはたくさんいた。

 狭い世界の中で言葉を出し、狭い世界の中でその言葉を否定されたら、大きな世界で認めてもらえるまで戦い続ける気概が必要だった。

 狭い世界の中で言葉を出し、狭い世界の中でその言葉を否定されたら、気の弱いものはそれを受け入れることが多かった。

 絵を描く才能、物語を綴る才能、音楽を奏でる才能、美声を聞かせる才能、計算をする才能、物を覚える才能、何かを作る才能、いろんな才能が、活かされることのないまま、芽を出さずに埋もれた時代が、あったのだ。

 食べていくために、安定した職に就いた人は、数えきれないほど、いる。
 親の命令を聞く事しかできず、人生の伴侶をあてがわれた人もいる。
 家を継ぐために、自分の納得しない生き方を強いられた人もいる。

 現代にだって、自分の納得できない状況で藻掻いている人はたくさんいる。

 けれど、それを思っても、昔は、やはり、コミュニケーションの手段が少なかったと思うのだ。

 自宅、親戚付き合い、友達、クラブ活動、学びの場…近隣の人々で繋がるだけでは、どうしても世界が、小さい。

 雑誌や新聞、テレビにラジオ…印刷媒体や放送媒体では、どうしても意見の往信が一方的だったり少なくなってしまう。

 最近は、個性を持つ人がずいぶん積極的に活動し、人生を謳歌しているように感じる。

 SNSで歌を披露して、デビューをする人。
 SNSで絵を披露して、デビューする人。
 SNSで持論を展開して、同士や仲間を増やす人。
 SNSで自分の熱意を発表し、支持を得る人。

 相談する場所もずいぶん増えたし、垣根が低くなったように感じる。
 様々な相談サイトに悩みを投稿し、不安を解消する人は少なくない。

 ずいぶん世界が変わったのだと、たまにしみじみ…思う。

 昔は、先生に相談したところで、その先生がダメだと言えばダメだった。
 昔は、誰かに相談したところで、その誰かがダメだと言えばダメだった。

 ダメだと言われて、諦めるのか、それとも。
 ダメだと言われて、自分一人でどうにかするのか、それとも。

 昔は、相談できる人の数が、圧倒的に少なかったのだ。

 自分の意見を受け止めてくれる人と出会う事が、難しかった。
 自分の意見を聞いてくれる人に出会えるまで、探し続けようと考える風潮ではなかった。

 諦める人は、少なくなかった。
 受け入れる人は、少なくなかった。
 諦めない人は、少なかった。
 受け入れない人は、少なかった。

 今は、自分の納得できる答えをくれる誰かに出会うまで、誰かを求めてさまよう人をわりと見かける。

 見ず知らずのネットの世界の住人であったとしても、自分の意見を肯定してくれる存在は…人を強くする。

 誰か一人、自分の言葉を認めてくれる人がいる、その事が前を向くきっかけとなるのだ。

 ……私は、過ぎてしまった時代を「もしも」でふり返ることが、キライだ。

 過去を変えることなどできないのだから、考えるだけむなしくなる。

 けれど、それでも、時折……もし、昔、才能のある人を特別扱いすることができていたらと思う事が、ある。

「あんたは本当に愚図だねえ!生まれた時からグズだもんねぇ!ハイハイしたのも他の子がみんな立ってる頃でさあ、恥かいたわ!」
「お前は昔から運が悪いんだ、初めて買ってやった靴を履いて四日目に犬の糞を踏んでダメにしやがって!」
「頭が悪いのは昔から変わらないよ、アンタ九九の暗記39番目だったんだ、恥だねえ、わしはクラスで一番に覚えたのに!」
「あんたは四年生の授業参観でわしの作ったジャガイモのきんぴらの事話したんだよ、恥をかかせやがって!」
「あんたの書いた卒業文集の終わり三行の一文字目、右からうんこってあっただろう!300人の卒業生の中であんただけうんこ!バカだねぇ、一生残るのに!」
「中学の時のアンタの成績と言ったら!569人中504位とかさあ、ドンだけ頑張っても204位でしょう、ホントバカのクズ!」
「頭の悪い高校に入ったくせに結局最高3位でしょ?頭の出来が悪すぎるんだわ、キモチの悪い絵なんか描いてるからそんなことになるんだわ!同人誌だって八冊しか売れなかったし!」
「あんたが片道二時間の大学なんかはいるから定期券代がかさんでかさんで!原付で通った方が安かったのにさあ!計算もできない考えなし!」
「昔からデブだもんねえ、108、69、99のスーツめちゃめちゃ高かったんだわ、結局五回しか着てないしもったいなかった、このムダ金使いが!」
「あんたの旦那初めて挨拶に来た時靴下の小指部分に穴が開いてたんだよね、ビンボったらしいんだよね、デブだし!」
「あんたの娘はホント生まれた時に雨が降っててさあ、見に行くのが面倒で!タクシー代も2490円かかったし!」
「お前の家は中古住宅だから縁起が悪いんだわ!入口の所にミミズが二匹死んでたし、小石がおかしな形に落ちてたし!」

 母親の、老いてなお余りある記憶力に、圧倒されてしまう私がいる。

 私のことのみならず、自分の生きてきた瞬間の出来事や場面、紙面などを事細かく覚えていては、ねちっこくたたきつけてくるのだ。

 父親と見合いをした日の新聞に歩行者天国の浮かれた記事が載っていて腹立たしかったとか。
 婆さんが酔っ払ってテレビの音を爆音にしたせいで隣の爺さんが乗り込んできて玄関のガラスを二枚割って一万二千円払うはめになったとか。
 ひい婆さんが死にそうになったから救急車を呼んだのに、到着が22:49分だったから間に合わなかった、救急隊員の長谷川を許さないとか。
 妊娠中に図書館で借りてきたミステリーの26ページに犯人の名前が書いてあったから破ってやったとか。
 自分の授業参観で内田先生が名指しで四字熟語の誤用を指摘したからクラスメイトに嫌われたとか。
 三軒隣の好子に貸したノートの八ページ目に折り目をつけられたとか。
 貸本屋をしていたときにお釣りを間違えたせいで婆さんに竹輪を二本食われて餓死しそうになったとか。

 普通、人というのは、こんなにも鮮明に記憶を持ち続けないと思うのだ。

 少なくとも、私は、鮮明な記憶は持ち合わせていない。

 時代が時代なら、私の母親は、超記憶の持ち主として、どこぞの研究施設で持て囃されていたに違いないと思うのだ。

 今もなお、一日前の食事はもちろん、一週間前のおやつも、1ヶ月前の新聞に載っていた地方欄の記事まできっちり覚えている。

 一言言い間違えたことをずっと責め、一言口を滑らせたことを延々ほじくりかえす。

 記憶力は、老いてなお健在なのだ。

 だが、しかし。

 老いてしまった今、もう、持て囃されるような事は、恐らく……ない。

 むしろ、私を追い詰める…今すぐ消え去ってほしい能力でしかない。

「ちょっと!もうじき温泉の元のストック切れるって言ってただろうが!あーあー、なくなった!今すぐ早く買ってこい!ホントに頭が悪い!あんたはホントに出来損ないだわ!こんな簡単なことも覚えられないなんて!じじいの血だね!どうしようもない!」

 なんで私には、記憶力が受け継がれなかったんだろう。

「何回言ってもすぐ忘れて!無駄な脳みそだよ、全く!ちょっとは私の言葉を一言一句忘れずに復唱してみやがれ!」

 ……受け継がれなくて、大正解だとは、思うんだけどね。
 罵詈雑言は、一刻も早く忘れるにかぎる。

 私は、忘れっぽくて、良かった。

 ……忘れる事ができたから、今、たまに笑える瞬間がある。

「じゃあ、今から温泉の元買ってくるね。」

 ドラッグストアーでいろんな温泉の元を買ってきて。

「これは嫌い、これはもらう、これは色が嫌だって言っただろうが、これもっと買ってきて、これよりもあれがいい、これしかなかったのか、こんなのは安くてダメだ、これは……。」

 結局、なにをしたところで、全部ダメ出しされるのだ。

 ふふ、おっかしい……。

 ひとしきり独りで笑った私は、なにを言われていたのかきれいさっぱり忘れて、朝掃除したばかりのリビングにモップをかけ始めたのであった。


何億回も言われるとさすがに覚えてしまう事ってあるんですよねぇ……。


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