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モンターニュのつぶやき「令和の時代は、健忘症に罹っている日本人の脳が試されている時代」 [令和3年4月25日]

[執筆日 : 令和3年4月25日]

「火薬玉の発明だけで、ヨーロッパの人民が自由を奪われたという話です。それは一発の火薬玉で降参してしまうような町人どもに城の番をさせるのは危ないというのが口実になっていて、大名どもはたくさんの軍勢を養い、さら軍勢で人民に暴圧を加えたというのです。また火薬の発明以来、難攻不落の城塞などなくなった。つまり、不正や暴力にたいするこの世における避難所がもうなくなったわけです。私はいつも心配するのですが、人間は、最後になにか秘密を発見して、ずっと手軽に人間を殺し、人民や国民全体を滅ぼしてしまうのではないでしょうか」モンテスキュー「ペルシャ人への手紙」(桑原武夫「一日一言」(岩波新書)から)

 昨日、芝刈りのことをつぶやいたら、ゴルフ友から「モンターニュさんは、総てのショット・パットを憶えているですか」と早速反応がありましたが、憶えているというよりも、記憶にないほうが不思議だと思うのですね。昨日の夜に食べた食事のことを忘れているようで(笑い)。
 ゴルフは他のスポーツ、例えば、野球、サッカー、ラグビー、あるいはテニスや卓球とは違って、動いているボールに反応して遊ぶゲームではなく、止まっているボールを如何にして目的地点に運ぶかというゲームです。相手の投げたボールや相手の打ったボールをどうやって打ち返すかという、反射神経が必要な動きは殆どありません。そういう意味では、スポーツらしくない身体と心の動きが求められるわけです。一流、あるいは超一流選手は、大体総てのショットを記憶しているといいますが、なぜそれが出来るかと考えると、それはゴルファーは言わば、ある建物を建てる建築家に似ているからでしょうね。建築家は、自分で設計図を描き、それを実現しようとする訳ですが、設計図と実際が違う場合はあるでしょうが、理想と現実の乖離を如何にして埋めるかがポイントになります。
 現実に合せて設計図を変更することが出来るかが重要になりますが、ゴルフの上手な人は、状況に合せて設計図を変更することが出来る、柔軟な対応が出来る人なんでしょう。技術的な変更(使うクラブ選択やルート変更等)もあるでしょうし、心構えも変えないといけませんが、そういうことが出来るから、上手なんでしょう。いずれにしても、事前の設計図を持っているから、実際のプレーでどうなったかを、成功したのか、あるいは、失敗したのかを一打、一打ごとに検証することが出来る訳です。ある意味では、検証を繰り返して真実を見つける「科学者」的マインドがないとゴルフは上手にはなれないし、そういう姿勢があれば、ショットやパットを記憶するのは特別難しいことではないと思います。もの造りに従事している、例えば料理人や、芸術関係に従事している人がゴルフが上手なのは、単に感性が優れているから上手なのではなくて、それなりの設計図を描くことが出来て、なおかつ、材料に合わせて(現実に合わせて)、具体的な対応を柔軟に出来るという能力があるから上手なんだと思いますね。
 出来ないのは、極論すれば、脳が嫌なことは忘れたい(失敗したこと)という性質の「無意識的健忘症」があるからでしょう。そうなんですね、人は、失敗したことや嫌なことはともかく忘れようとする生き物。ですから、失敗したホールのことは忘れても平気なんです、いやむしろそうしないと後のホールを続けては出来ないでしょう。人生もしかりですねえ。過去の失敗は忘れる、それが脳の特異性というやつなんです。ちなみに、第2次世界大戦前後の日本の失敗、数限りなくあると思うのですが、そうした失敗を覚えているのは、歴史家だけ。失敗した張本人は、みなケロッと忘れているのです、私たち普通の日本人も含めて。
 戸部良一さんに「失敗の本質」(中公文庫)という本がありますが、日本軍の戦略的な失敗等を検証した本ですが、日本の為政者は失敗した事実を決して認めないし、かつ覚えていないはずです。失敗という負の経験は忘れるのです。よく日本人は歴史認識が希薄であると批判されることがありますが、これは人としてある意味では当然で、日本人に限ったことではないのですが、特に日本人は、「無常観」で生きている人々ですし、失敗から学ばない国民なんです。日本人の脳がそうなんですから。ただ、幸いにして、歴史学者とか、あるいは、市井の研究者のおかげで、そうした失敗の歴史が記録されているから、日本人の失敗を、日本人らしい失敗の特徴を確かめることが出来るのです。でも、残念ではありますが、政治家も含めて、私もそうかもしれませんが、過去の失敗を思い出したくないから、健忘症的に今を生きていられる、まあ、そういうことです。健忘症というのは、ある意味で生きるための「知恵」とも言えます(でも、それは進歩にはつながらないとは思いますが)。

 さて、コロナ禍、東京は三度目の緊急事態宣言となりましたが、ちょっと電車で日本橋に行って、丸善で本を少々購入して参ったのですが、電車にはそこそこ乗客が、特に女性客が。
 悲観的な予想をすれば、ポストコロナ禍というのは、今の緊急事態の多少薄まったような生活スタイルが継続されるかもしれないとすると、教育のあり方、仕事のあり方、そして余暇の過ごし方も含めて、ウイルスといった外敵なものとの共存的で、そして再生可能な持続的な生活になるとして、特に経済の仕組みを変えていかないと行けないかもしれませんね。3密を回避しながら、生計を営めるような仕事にしていかないと行けないのでしょうが、そうなると、観客があってなんぼのプロスポーツもそうですし、お客さんが神様の観光や飲食といった所謂サービス業はあまり明るくないし、事務系の仕事もあまり魅力的とも思えないし、もの造りもなかなか難しいでしょう。江戸時代の国内消費中心の経済となれば、都会生活よりも、田舎で手作業をしながら、自給自足的な生活も悪くないかもしれません。一次産業中心の経済に逆戻りするのかどうなのか、投資で生計を建てて、早期引退を目指す若い人も増えているようですが、生活の仕方が変わるということはお金のあり方を変えないとなかなか変わらないのでしょう。

 今日の最後のつぶやきは、今から250年程前の偉人であるフランスのモンテスキュー(1669-1755)の言葉です。彼は、冒頭にあるように、人類がいつかは破壊的な力を持つ恐ろしい武器を発明するのではないかと言っていたわけです。正に、原子力爆弾を予見した訳ですが、原子力爆弾に限らず、サリンといった猛毒もそうですし、人間の知能は際限はないのかもしれませんが、歯止めをかけるのは、理性や倫理という、これも人間だけに与えられたものを如何に活用するか次第であります。
 人はコロナ禍の対応にもあるように、つねにイタチごっこを繰り返す生き物のようですが、ゴルフとは違い、相手が変化するコロナウイルスもそうですし、社会というのは、変化し続ける訳で、その中で人は如何に生きるのが良いかという問いを持ち続け、そして検証するしか、正解(真実)には辿り着けません。臨機応変的な対応が出来るかどうかは、脳次第であり、令和の時代とは、健忘症に罹っている日本人の脳が試されている時代だと思います。
(了)

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