モンターニュの折々の言葉 383「ヒトはけっして自分のことを知りえない」 [令和5年5月2日]

 都会で生まれ育った人と、そうではない場所で生まれ育った人とでは、身体機能も、そして脳の機能も違うかなと。身体機能と脳の機能の話の前に、山の中で育った熊モンターニュからすると、高校時代下宿生活をしていた秋田市は、もう大変な都会で、目が眩む位。都会とはどんなところだと田舎人に尋ねられたら、喫茶店があるところと答えるでしょう。苦み走った、渋みのあるコー匕ーの香りが漂い、そして紫煙が舞う空間。あれですね。あれは、大人の階段を登るために、どうしても入らないといけない場所でしょう。

 ところで、この間、都会生まれの都会育ちと思われる方が、モンターニュさんが今の住まいを決めたのは、ブックオフが近くにあるからですかと、やや愚問的な問を投げかけてきて、これだから都会人は困るのよねえと。

 都会の人は田舎の人を、田舎の人は都会の人を誤解しているのでしょうが、私にとって、都会にある便利さというのは、それほどの魅力ではない。交通機関の便利さ、レストランの多様さ、文化的施設の豊かさ(美術館や図書館、書店も含めて)は、都市そのものの魅力とうよりも、お金の付加価値的な要因から出来ているのでしょうから、都会はまあ、金持ちの住む場所ということ。その典型的な財力のある都市が、東京であり、大阪であり、名古屋であり、横浜があるでしょう。

 人間の本性が衣食住に表れるという、近代小説の魁的小説家、バルザックの言葉にもあるように、都会は、まさしく、人間の本性が遺憾なく発揮できる場。それでも、人間の本性とは、どうも違うなあと思うのは、都市というか、都会は、特に日本の都会は、人間の脳ではなく、社会脳に洗脳されている、そんな印象があります。私が今住むマンションが良いと思ったのは、家内のような都会生まれの都会育ちが求めるような利便さとは違い、田舎生まれで育ちから形成された身体と脳に合っているからで、本屋が近くにあるとか、コスパの良いレストランが沢山あるとか、銀座にも近くて、交通の便が良いからというのではないのです。

 分かりやすい説明をすると、私は基本的に朝は自分の時間だと思っていて、特に、朝外出しないと調子が悪い。それが中学時代や予備校時代、あるいは大学時代に、朝早く起きて、外で仕事をしていたという習慣が影響しているという面もあるでしょうが、それよりも、朝起きて、地回りをしないと、一日が始まらない、そんな生活を幼い頃からしているので、朝外出しないと、気分まで悪くなる。

 外は日々目立った変化がある訳でもなく、いつも変わらない世界がありますが、そういう変わらない世界を見て、納得して、安心して家路に。田舎人と都会人の違いは、田舎人にとっては、戸外で過ごす時間が多いので、身体能力が死活的に重要。都会人は、室内で過ごす時間が多いので、脳の能力が死活的に重要。家内を見ていてもそれがわかります。一日中家から一歩も外に出なくても、平気で困らないみたい。私なら、精神的病気になってしまう。その前に身体が衰えて、まさによぼよぼの老人に。

 養老孟司さんが面白いことを書いていました。オリンピックは、身体能力の競争であるから、身体能力が求められるのは本来は田舎なのに、何故か身体能力不要な都会で開催される、これは矛盾している、矛盾しているが、都会人が見たがるショーだと考えれば納得すると。そうなんですね、かつてのローマなどでライオンと奴隷等が戦った試合は、都会人という、暇な人間の、脆弱な身体である人のための見せるショーであって、オリンピックは、そうしたショー的要素を引き継いでいる訳。

 そう考えると、都会というのは、日々、怪しげなショーが演じられる場所かなあと。誰でも主役になれそうな可能性を持った、摩訶不思議な空間。しかしながら、本当の自分というものを次第次第に見失いがちになって、とにもかくにも、脳にとって都合の良い、楽なことばかりを求めて、気がついたら、足が動かなくなっていたということにもなりかねない、怖い場所でもありましょう。

 そういえば、私のキンシャサ時代の上司、上司は一人しかおりませんでしたが、久しぶりに連絡があって、加齢とともに飛距離が逓減し、それを補うために、よく飛ぶというドライバーを購入したとか。都会の良さの一つに、欲しいものが簡単に手に入るという、欲望を満たしてくれる快適さ、快楽さがあります。身体能力の低下をスグレモノの道具でカバーするというのは、これは楽をしたがる脳が司令を出したのでしょうが、必ずしもそうとは言えない。というのは、それまで使っていたクラブが自分の身体にどうも合わなくなってきたかなあと、身体が前もって感じないと、人はクラブを買い換えようとは、考えません。脳が考える前に、身体センサーが前もって、こうした方が良いよと、教えてくれる訳で、それもあって、できる限り、朝は毎日歩く、そして、午後は陸上の大会に向けて、負荷をかけてランニングをするのが日々の日課で、そうした日課的な習慣行動だけで、ほぼ9割を占めるのがモンターニュの日々であります。

 さて、世の中には、何事においても完璧な人はそうそういないのでしょうが、東大の薬学部系の教授の池谷裕二さんは、毎日100本以上の学術論文に目を通すのが日課の脳研究者。それだけ参照する情報があると、頭がこんがらないのだろうかと心配になりますが、そうはならないみたいで、これはこれで特殊な能力なんだろうと思います。彼は、ネット上の情報ですが、小学生の頃は九九や漢字が苦手であって、成績はパットしなかったようです。物(人の顔も)と名前を一致させて覚えるのが苦手な、先天性相貌失認症、という病?をもっているようです。そうであるから、逆に、論文は幾らでも読みこなせるのかなあと。

 科学の世界では、毎日のように新しい発見があるのか、去年正しかったことが今年はそうではなくなるという位に「加上の原則」が闊歩する世界。そうだからといって、古い本が役に立たないという訳でもないでしょう。今回、池谷さんの10年前の本「脳には妙なクセがある」を読んで、脳の世界と、人間の世界には、まだまだ超えられない溝というか、相互に交信、交換が出来ていないものがあるように思えてきました。

 池谷さんは、「自由な意志とは一体全体、なんだろう、どこにそんなものがあるのか」という問題を提示しつつ、「意志は脳から生れるのではない、周囲の環境と身体の状況によって決まる」という見解を持っている方。人間の日々の行動の約80%は、おきまりの習慣に従って、言わば自動的に行っているだけのこと。色々な例を出して、例えば、友達との会食時の料理の選び方もそうですし、そうそう、ゴルフのときのクラブの選び方なんかはまさにそうですね。自分の意志でなんか決めていませんよね。

 池谷さんの考えを理解する上で大事なのは、脳というものが、身体の一部、いや、身体そのものとして生まれて発達してきたものであるということ、そして、脳には、長い間かかって出来た脳内構造というか、階層構造があって、脳のそれぞれのパーツ間で、力関係が働いているということを理解しないといけません。

 それから、これはまた重要なことですが、デカルト以来の、西欧哲学の考えというのは、人間は考える葦であって、意識する存在であり、その意識する存在、つまりは脳が意識してモノを考えているということを前提にして成り立っていることです。しかしながら、意識したことが考えることになることは、脳的には殆どないというのが、池谷さんの見立てです。

 脳のことを知れば知るほど、西欧哲学は間違いだったような気になり、むしろ、仏教の、禅とか、密教の考え方が正しかったのではないかと思い始めています。脳学者からすると、ヒトは、意識して考えて行動を起こすというのではなくて、無意識によって行動を起こすということです。じゃあ、無意識とは何かというと、それは本当の自分ということになるわけです。行動の殆どは、この無意識の潜在的意識で決まってしまい、考えて、つまり意識ある自分が行動をすることはないということ。

 意志=人間の自由な意識(心)、というようなヒトはこの世にはいなくて、そう思うのは幻覚にしかすぎないということなんですね。ですから、笑ってはいけませんが、よくユーチューブを見て、スイングを身につけようと、意識的に考えて、真似しようとしているゴルファーがいますが、これも幻覚操作にしか過ぎないということ。

 脳学者は、脳のどの部位がどんな役割分担をしているかを大体突き詰めていますが、私たちは、仮にその知識を理解しても、脳の中を見ながら行動している訳でもないし、実際、脳内部でどんなことが起きているかを知ってもしょうがない。それでも、真の自由な心は仮にあるとしたら(あると信じたいなら)、どこにあるかを問うことは重要であると、池谷さんは述べます。

 そもそも、ヒトを規制する法律は「ヒトに自由な心があることを前提にして作られているから」ということですが、これは脳的にはおかしい(幻想だということ)ということであります。色々な実験をして、その自由な心を探しているようですが、目には見えてはこない。ところが、火事場の馬鹿力もそうですが、柔道などの受け身もそうでしょう、急に身体に向かって何かに襲われた時、脳が、これはどの位の速さで進行していて、重さは幾らであるから、衝撃の力はこれだけあるから、身を守るには、何が必要で、、、と考えて、身を守る人などいないでしょう。

 自分という真の姿=無意識、であって、ヒトは、自分のことは決して知りえない、知りえないままで一生を送るということであります。悟る? それはまさに死を意味するのかもしれませんね(笑い)。ただ、脳には階層構造があって、旧脳は身体と密接に連携しているけれども、新脳である、大脳新皮質(頭の上にある)が、下剋上的に上位にあって、主導権を握っているようであります。これはちょっと困ったことで、新脳である大脳新皮質は旧脳とは違い、身体性が希薄。希薄というのは、身体を使って行うことが苦手で下手、というか、省略しようとする傾向、癖があるようで、その結果、本来は脳と身体は、情報のループが形成され、これが循環的であったけれども、脳の自律性が高まり、身体を省略して脳だけの内輪ループだけで処理しようとする、横着な形、すなわち、「考える」ということが増えている、というのが池谷さんのこれも見立てであります。ヒトの心の実体は、「脳回路を身体性から解放した産物」だということです。

 なお、脳と言語の関係ですが、脳の原型の誕生は今から5億年前で、言語はおよそ10万年前。これを1年の長さで例えると、脳は1月1日に生まれ、言語は12月31日の夜半頃(10時)に生まれたと言えるようです。長い間、脳は非言語の身体世界に生きてきた訳で、意識化する、つまりは言語化して生きることは、こっけいで奇妙なことであると、脳は思っているかもしれない、と池谷さんは言いながらも、脳はしかしながら、楽(らく)したい、身体を使わずに、効率的に済ませたいという癖がありますから、そこは注意しないといけませんと、警告は発しております。というのも、脳は本来、身体とともに機能するように生まれてきたからで、正常な機能のためにも、身体を十二分に使いなさい、それが脳の機能を高めることになると。

 こうした話も面白いのですが、一番気になったのは、最も効率的な勉強法の話。あくまでも脳から見てのものですが。ある言語の単語40個を覚えるさせるために、4つのグループに分けてやってもらった実験の結果ですが、第1グループは、40個通して学習させ、その後40個すべてに確認テストをし、この学習とテストを組み合わせをやり、完璧に覚えるまで繰り返す。第2グループは、確認テストでは思い出せなかった単語だけを再学習し、確認テストでは、毎回40個すべてを試験し、満点が取れるまで繰り返す。第3グループは、確認テストで覚えていない単語があれば、初めから学習し、覚えていなかった単語だけを確認テストをする。不正解の単語がゼロになるまで学習とテストを繰り返す。最後の第4グループは、確認テストでできなかった単語だけを学習し、再確認テストで出来なかった単語だけをテストして、そして、それを繰り返すというもの。

 この4つのグループは最終的には全員が全て40個覚えた(それほどの時間の差もなく)のですが、しかし、しばらくたってから(1週間後)再テストをさせたら、第1グループと第2グループはよく出来ていた(8割)のに、第3と第4グループは駄目だった(3割ちょい)という結果が出たのです。これは長期的に安定した記録保存のためには、できなかった単語をだけを覚えるという学習よりも、情報を何度も入れ込む学習が効果的であるということです。池谷さんの結論は、「参考書を丁寧に読むよりも、問題集を繰り返しやるほうが効果が期待される」ということで、そうか、「モンターニュのフランス語講座」も、問題中心にして、シゴクのが良いんだなと。確かに、今解いている中学生向けの英語の問題集は、そういう、中長期的な記憶の定着を目指したものだなあと、感心しつつも、英語って、でも変な言葉だなあと。どうも楽したいという脳的な言語じゃないのかなあと。

 おっと一番大事なことを忘れそうでした。ゴルフの練習で、ある特定のクラブだけを使ってスイング練習するのがどうも日本的なようですが、これは駄目でしょう。単語を覚えるのと同じで、使うであろう全てのクラブを使えないとゴルフは上達しません。ドライバーも、ユーテリティーも、アイアンも、そしてパターも同じように練習して使えない限り、スイングに必要な情報が身体の記憶として定着できないということ。ヘボゴルファーは、そこがわからないから、永遠にヘボなんでしょう。どうも失礼しました。


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