『フォルカスの倫理的な死』を読んで

 こんにちは、先日、モノを運ぶ日雇いのバイトに行って、あまりの体力の無さに3時間でギブアップして帰宅した、たかしと申します。
 今回は前回とは趣向を変えて、読書感想文といいいますか、ネットで小説を書いていらっしゃるまくるめ氏の代表的な名作『フォルカスの倫理的な死』という小説を読んで感じたことを、つらつらと書き綴ろうと思います。
 といいますか、最初はふせったーというネタバレを防ぎつつTwitterに長文を投稿できるサイトを使って感想を投稿しようかと思ったのですが、またしても考えていた以上に文章が長くなってしまったので、それならもういっそということで、こちらに投稿させていただくことにしました。

 『フォルカスの倫理的な死』は、いつものように下線部のリンクをクリックorタップでノベルアッププラスというサイトから読むことができます。短編小説の部類に入る短い作品で、文体もとってもシンプルで読みやすいので、是非ともこの記事を読む前に読んでください。この他にも、エンターテイメント分マシマシでなおかつ繊細な表現も併せ持つ最強のファンタジー小説『脱法勇者』の連載もされているので、そちらも要チェックです!
 そして、まくるめ氏の小説が気に入ったなら、ノベルアッププラスのサイト内でのコメントやスタンプでの応援、SNSでの拡散よろしくお願いします!なんならこんな長文感想垂れ流しおじさんのnote記事なんてすっ飛ばして直接そっちを拡散してください!よろしくお願いします!

 さて、日課の宣伝も終わったところで、早速本題に移りたいと思います。歌詞の分析をした時とは違って、今回は一から書かれている文章の流れを追っていくのではなく、全体を読んだ上で考えたことを考えた順で書いていきます。

※解釈についてはあくまで私の個人的な見解であり、皆さんそれぞれの解釈を制限したり妨げるものではありません。読解の一つの助けとして、この記事が皆さんのお役にたつことが出来れば幸いです。

 実は、正直に告白すると、以前にもこの『フォルカスの倫理的な死』を読んだことはありました。でもその時には、この小説の良さがどこにあるのかをほとんど理解することが出来ず、そのまま読み流してしまっていました。
 ですが、今になって改めてこれを読んで、以前の自分では読み取ることの出来なかったこの小説の凄まじさを、ようやくなんとか掴み取る事ができるようになりました。つまり、この作品の素晴らしさに、ようやく僕の感性や読解力がほんの少しでも追いつくことが出来た、ということなのだろうと思います。本当にすごい小説です。僕もこんな小説を書けるようになりたいと、心から思います。

 『フォルカスの倫理的な死』では、倫理と文化、生き物を殺すということ、殺さないということについて、風刺というには余りにフラットな目線で淡々と描きます。何が善とも何が悪とも、主人公の目線から決めつけられることも無いし、それを描く作者の目線にも、そういう不純物は一切ありません。ただそこにあるのは、主人公である「わたし」の外側に存在する倫理であり、善悪です。
 文章にも難しい言葉は一切使われていません。書かれている内容を理解することだけなら本当に誰にでも出来ると思います。起こったこと自体は、本当にシンプルそのものです。もし作中の世界で、この一連の出来事が新聞に取り沙汰されたなら、ただ「禁止された動物食を提供していた秘密倶楽部、一斉検挙」などとセンセーショナルに書かれるだけかもしれません。
 ですがきっと、シンプルかつフラットに、透明な目線から描かれているからこそ、「わたし」にとってのただ一つの問題である、愛猫だったフォルカスの死をどうやって受け止めるのか、ということが綺麗に浮き彫りにされているのだろうと思います。
 「生き物を殺して食べることは倫理的に間違っている」という社会の観念が、同じ生き物であるはずのフォルカスを死に追いやりました。「わたし」はその死を、自分がフォルカスを安楽死させたことを受け入れようと、フォルカスの命が絶える所を直接見て、遺骨から人工の宝石も作りました。でもそこに、パートナー(彼氏、旦那と書かずパートナーと表記していることも、現代とは倫理的な面で異なる未来の社会を意識したものかもしれません)が、フォルカスに瓜二つの電気で動くロボットを買って帰ってしまった。
 その時点でおそらく、「わたし」の中でフォルカスが「死んでいるのに生きている」という、どちらともいえない中途半端な状態が生み出されてしまったのでしょう。
 「フォルカスは死んだんだ」と、感情のケリを付けて心の中のあるべき場所に収めることも、フォルカスのことそのものを忘れて心の中から完全に消去してしまうことも出来ず、フォルカスという存在が彼女のなかで大きな異物、またはバグとして残り続けることになってしまったということが想像できます。
 だからこそ、彼女はその心の異物をなんとか処理する方法、つまりフォルカスの死を受け入れる方法を求めるようになったのでしょう。そして、その方法として彼女がたどり着いたのが、生きた動物の肉を食べる、ということだったのです。

 動物食が法律で禁じられ、培養肉を食べることが当たり前になった時代で生きてきた彼女にとって、動物食そのものに対する愛着もなければ憧れもありませんでした。
 ただ、培養肉を拒み続けたフォルカスの食べていた「生きていた動物の肉」を食べること、そしてあるいは、フォルカスを間接的に殺した「動物食を禁止する社会」に逆らうことによって、フォルカスの気持ちを少しでも理解できるのではないか、そしてもしかすればフォルカスの死を受け入れることができるようになるのではないか、という期待をもって、彼女はあえてタブーをおかしたのでしょう。
 ですが、実際に動物の肉を食べてみても、彼女の内面にはほとんど変化は現れませんでした。それもそのはずです。なぜなら、彼女の中には、初めから冒してはならない禁忌をなど存在していなかったのですから。タブーは、倫理は、各人の心に内面化されているからこそのタブー、倫理なのです。
 初めにも言ったように、彼女は世間にある倫理というもの、もっといえば自分自身を含むほぼ全てのものを、極端なまでに平坦な、価値観という色眼鏡を通さない瞳で見つめていました。動物食をタブー視する社会も、動物の肉や喫煙、飲酒に愛着や執着を持つ人間も、彼女にとっては等しく、理解、共感することの出来ないものたちなのですから。
 だからこその「ようするにここはわたしの居場所ではなかったのだ。」という言葉なのでしょう。

 しかし、かといって動物食を食べるという行為が彼女にとって全く無意味だったかといえば、そうではありませんでした。
 なぜなら、実際に動物の肉を食べることでしか、「動物の肉を食べればフォルカスの気持ちを理解して、フォルカスの死を受け入れられるようになるかもしれない」という期待を彼女自身の中から消し去ることは出来なかったのですから。
 もし、動物食に対する「期待」を抱えたままの状態で何らかのトラブルに巻き込まれて家に帰れずにロボットの「フォルカス」が動かなくなったとしても、きっと彼女の抱える心のバグは解消されず、異物は取り除かれないままだっただったろうと思います。
 しかし、動物の肉を食べるという経験を経て、そんなことをしてもフォルカスの死を受け入れることは出来ないと知ったからこそ、警察に拘束されてロボットの「フォルカス」を充電してやることが出来ないとわかった時、彼女の中で生きることも死ぬことも出来ずにいたフォルカスにようやく「倫理的な死」を与えることができたのでしょう。
 この物語は、このように締めくくられています。

わたしは目を閉じて、誰もいない自分の部屋を想像した。そこでフォルカスはゆっくりと動かなくなる。

 以上で、私の『フォルカスの倫理的な死』を読んでの感想を終わろうと思います。正直、この本当に素晴らしい作品の良さを、この記事でどれだけ伝えることができたか、不安ではあります。まくるめ氏があえて直接的には表現せず、極限まで削りに削ってシンプルな表現にまとめあげたものに対して、無粋にも個人的な解釈でもって勝手に長々と注釈をつけているのですから。
 ですが、あえて言葉として出力することで、読むだけでは気付けなかった発見をしたり、読んだ時に感じた気持ちをよりはっきりとした形にできるのではと思い、この感想を書かせていただきました。
 私と同じまくるめ氏の小説のファンの皆さんであれば、共感できるところは共感したり、ここは自分と違うという点があればそれを確認する材料にしたり、またこの記事で初めてまくるめ氏の作品を知ったという方、もしくは読んだことはあるけれども初めて読んだ時の私のようにどうにもピンと来なかったという方は、この記事を楽しむきっかけや手がかりにしたりと、読まれた皆さんの好きなように活用していただければ幸いです。

 さて、あとがきがかなり長くなってしまいましたので、この辺りで本当に終わりにしようと思います。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。ではでは〜



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