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「バカは死ななきゃ治らない」、父は嬉しそうに言ってました

死んだ父は親戚の集まりなどで酒が入ってご機嫌になるとよく「酋長の娘(わたしのラバさん)」を歌っていました。私の父は昭和一桁の生まれです。戦中に少年期を過ごしているので昔の記憶がたくさん残っていました。9人兄弟の次男だった父は子供の頃から家族からバカ扱いされていたようで、私の叔父叔母にあたる弟や妹たちは笑いすぎて涙を流しながら「あんちゃんはバッカだなあ」と言っていました。それに対して父は心の底から嬉しそうに「バカは死ななきゃ治らない」と言うのです。伝統芸能のように出来上がった形になっているのが子供の頃から不思議でした。

蛇足ですが、「ラバさん」の意味はかなり後になってから知りました。「Lover」だそうです。なるほど。

気になって今さっき調べてみたら、「酋長の娘(わたしのラバさん)」は昭和5年発売の歌謡曲で、「バカは死ななきゃ治らない」は昭和10年代に流行った広沢虎造の浪曲が素だそうです。そうだったのか。北海道のやや田舎に住んでいた父が寄席に演芸を見に行くわけはないので、寿司屋での修行生活の際にでも聞き知ったのかなあ。なんかそのあたりの可能性が高そうだ。

本当に楽しそうに「死ななきゃ治らない」と言っていましたが、死んでしまえば治るも治らないもありません。治ってから死んだほうがよかったのではないかと思いますが、今さらそんなことを言っても意味はありません。

父は本当に驚くほどものを知らないというか何もわかっていなくて、中学生ぐらいになった私にとってはバカというより「能力が低い」ぐらいに思えました。今になって思うと心の歪んだガキだなあと自分のことを思いますが、当時は本当に「なんでこんなこともわかんねえんだ」と不思議で、油断するとついクチに出してぶん殴られたりもしたものです。気にはしてたんだろうな。

そんな父が寿司屋を潰したのは私が中学生の時です。その頃の父は40代でした。今の私より全然年下じゃん。店を持ったのは30代か。30代で自分の店って立派だな。けっこうすごいぞ。でも20年は続けられなかったかあ。飲食店経営、本当に難しいな。

父の子供の頃は常識人というかバカじゃない生き方が可能だったのかもしれませんが、今はどうかなあ、今の世の中の情報量はひとりの人間の許容量を遥かに越えているので、そういう意味では誰も彼もがバカなのかもしれません。少なくとも世の中のありとあらゆることをすべて理解しているなんてことは無理です。それは昔も無理でした。でも昔は分かってる風で過ごせたはずです。今は分かってる風も難しい。わからないことだらけ。学者だろうが知識人だろうが職人だろうが技術者だろうが、自分の専門以外はびっくりするぐらい分からないのが普通です。それがダメだというのではなく、分からなくて当然だと思うのです。むしろ「なんでもわかってる!」ほうが危ない。それは娘を見ていてつくづく思います。私は娘が虚空の一点を凝視しながら「世界のすべてがわかった!」と言い放つ瞬間を見ています。「わかった!」は本当に危険です。

世界の情報量が個人の許容量を越えているのではという思いはコロナの蔓延や各地での戦乱以降、ますます強くなっています。感染が世界中に広がった当初は伝統として長く続く行事が中止になったり宗教や慣習による禁則を見直したりということが普通に行われ、科学が迷信を凌駕していく時代がついに来たんだなと感慨もひとしおでした。ところがしばらくすると反動なのかなんなのか、元の木阿弥どころか場合によってはおかしな解釈が当たり前になってしまったりという例も増え、正直うんざりしています。戦乱に着いての反応もそうで、陰謀論がこんなに世界中で人々の心を蝕むとはと暗澹たる心持ちです。

ですが、なんだかちょっとわかる気もするのです。わからないことをわからないままにするのではなく「わかった」と言ってしまいたい気持ちは私にもあります。実際は分かって無くてもわかったことにしようということも。なんでそんなことになるかというと、もうとっくに世界の情報量は私が分かる範囲を越えているのです。今さら気づくとかではなく、子供の頃からずっとそうでした。知識の世界も現実の世界も広くて深くてひとりの人間ですべてを把握することは不可能です。もう少し分かりたい、けど、分からない。そんな時に「世界のすべてがつながった!」という経験をしたら多分私も高揚するだろうなと思います。思いますが、実際は無理です。

これから世界の情報はますます増え続け、一人ひとりの人間は付いていくことすらできなくなるかもしれません。若者だろうが老人だろうが一緒です。

ふと思いついてChatGPTに「現代社会で爆発的に増えた情報の量は既に個人が扱える情報量を越えている気がします。どう思いますか」と聞いてみました。返ってきた答えに対してまた質問を投げてを繰り返すうち、情報過多の社会を乗り切るための対処法のひとつとして「信頼できるリーダーや専門家の確保と役割強化」が何度か文言を変えて提示されました。

それで気がつきました。今の社会で人気のあるリーダー的なポジションの人々が面倒な合議制よりある種の独裁的なリーダーシップを望んでいるのかもしれないということに。

どうやらリーダー的なポジションの人々もこのあまりに膨大な世界の情報の洪水に辟易してるようなのです。だから、簡潔に一刀両断できるリーダーを期待しているようなのです。いちいち細かいことをああだこうだ考えるのは面倒だという気持ちは、そういう「頭が良い」と思われている人々にも共通した思いなのかもしれません。それって頭がいいバカってことか。ベーシックインカムとかも「時給に足る仕事ができないようなヒトはお金あげるから経済の舞台から降りてくんねえかな」ってことだもんな。他人に厳しくて頭がいいバカ。ひどいな。

結論。

頭が良くてもそうでなくても人間は皆バカだ。

そして、

バカは死ななきゃ治らない。

いただいたサポートは娘との暮らしに使わせていただきます。ありがとうございます。