日本イタリア料理史~高須賀の美食入門16~

日本におけるイタリア料理の始まり

日本におけるイタリア料理の始まりは1881年に新潟で開かれたイタリア軒を端とする。イタリア軒は当時の日本人が開いたナンチャッテ・イタリアンではなく、なんと店主は本物のイタリア人でした。


もともとイタリア軒はこの地にできる予定は全くありませんでした。当時、曲馬団をしていたイタリア人・ピエトロ・ミリオーネ氏が来日中に怪我に倒れてしまい、仲間が母国へ帰る中、一人日本へと取り残されてしまったという不幸がありました。それをみた当時の新潟県令・楠本正隆がピエトロ・ミリオーネ氏を哀れに思ったのか資金の援助を申し出、料理の心得が多少会ったピエトロ・ミリオーネ氏はこの地にイタリア料理店を開くこととなります。


時代の後押しもあったとは思うのですが、イタリア軒はその目新しさからか新潟の鹿鳴館と呼ばれ、大いに繁盛しました。結局、1912年にピエトロ・ミリオーネは帰国することとなりましたが、その意思はその後も脈々と受け継がれる事となりました(なんとイタリア軒は現在でも新潟にあります)


これと似たような事が1944年に神戸でも起こりました。イタリア人カミッチェ・アントニオ氏を含む一団が港に入港した直後にイタリアが連合国に降伏を宣言。イタリアは同盟国から一転日本の敵国となった為、日本はカミッチェ・アントニオ氏達を拘束せざるをえませんでした。


とはいえ流石にこれは不便だとの事でしばらくして後にカミッチェ・アントニオ氏達は釈放。多くのイタリア人は祖国へと帰国しましたが、カミッチェ・アントニオ氏は日本と肌があったのかそのまま日本に住み、神戸でイタリア料理店、アントニオを開くこととなります。


アントニオもまた当時としては珍しい本場イタリア料理が食べられる店として大繁盛。カミッチェ・アントニオ氏はその後、店を南青山へと移転しましたがそこでもまた大盛況だったようで、南青山の店は当時の文化人で大変賑わったようです。


このように日本におけるイタリア料理のはじまりは偶然の事故で日本に滞在せざるをえなかったイタリア人によるレストランを端としています。他の外食産業でこのような事例はほぼ無いに等しく、かなりユニークであるといえるでしょう。日本人によるイタリア料理店の登場はもうしばらく後になります。


日本人による初の本格イタリア料理店

日本で初めて登場したイタリア料理店というと、1960年にオープンした麻布・キャンティが有名です。キャンティはフランスで8年間過ごした夫・川添浩史とイタリアで8年間過ごした妻・川添梶子により開かれた店で、パリの著名人が集まる文化サロンであったカフェ・ドゥ・マゴを目指して作られました。その狙い通り、ハイソな雰囲気を好んだ当時の文化人が多く出入りすることとなり、有名な所では文豪である三島由紀夫や安部公房が好んで通っていたといいます。


料理もかなり本格志向であったようでスパゲティ・バジリコ(当時はバジルが手に入らなかったので、大葉のペーストで代用していた)やオックステールの煮込みといった本格的なイタリア料理が提供されていたようです。


日本初のイタリア料理伝道師・堀川春子

日本へのイタリア料理の伝承者として1917年に生まれた堀川春子氏の影響を見逃すことはできません。堀川春子氏は1932年15歳の時、保守的な家でのがんじがらめの教育事情にうんざりし、イタリア大使館付き通訳者であった井上富貴氏の住み込み家政婦の職に家の目を盗んでコッソリ志願。


その根性が認められたのか見事採用となり、イタリア・ローマへと渡る事となりました。持ち前の行動力と井上富貴氏によるイタリア語教育もあり、堀川春子氏はその後現地のイタリア人とも親交を深め、帰国する1937年までの間、本物のイタリア料理を習得する事となりました。


イタリア大使館勤務が終了し、日本に帰国後は洋裁などで生計をたてていたようですが1951年に結婚の報告も兼ねて大使館時代の雇い主・井上富貴の所を尋ねた際、その経歴を買われ在日イタリア大使館での調理場勤務を打診されました。そしてそれを承諾した春子氏は、その後10年もの間、大使館でイタリア料理を振るう事となりました。


その料理の腕が口コミで評判をよび、当時イタリアブームが来ると先読みしていた伊勢丹に堀川春子氏は伊勢丹でのイタリア料理指導を頼まれる事となります。伊勢丹の熱心な勧誘のかいもあり、1962年に新宿伊勢丹本館で日本人による発の本格イタリアンレストラン・カリーナがオープンすることとなります。


レストラン・カリーナでは堀川春子氏がローマで学んだ本当のイタリアンを提供する事となりました。当初はイタリア料理に全く慣れていなかった日本人から様々なクレームもきたりしていたようですが、本物を提供したい。いつかはわかってくれるという堀川の意思により、赤字覚悟で本物を提供しつづける事となります。結果、当時日本に滞在していたイタリア人等からの絶賛もあり、カリーナは大盛況を遂げる事となりました。


その後、伊勢丹に縛られる営業スタイルに飽きを感じた堀川春子は1967年に独立。独立後はレストラン経営のみならず、イタリアへの日本人・料理人の派遣や日本におけるイタリア料理の普及活動などにも尽力する事となりました。1980年にはレストランの厨房での活動から身をひく事になりましたが、料理講習等の形で後進の育成に身を粉にしていました。その活動は2008年に永眠するまで続く事になります。


堀川春子氏の活動は最初から最後まで、イタリア人が日常的に食べていた料理を日本で広めるという事に焦点があてられていました。トマトソースのスパゲティやパンナコッタ、ティラミスといった堀川春子氏がイタリアで学んだ料理を本場そのままの形で一貫して提供していたため、異国の料理になれない日本人には当初は受け入れられず苦労が絶えなかったようですが、その熱心な活動のお陰もあり日本に本物のイタリア料理が広がる礎となりました。


日本イタリア料理史の萌芽

一般的に日本人が外国へと留学するようになったのは、1960-70年頃と言われています。1964年の東京オリンピック、1970年の大阪万博をきっかけとして異国の文化に目がむくようになり、この頃からフランス料理やイタリア料理を本場で学びたいといった志をもつものがあらわれはじめました。ただこの頃はフランス料理に比べてイタリア料理はあまり目がむけられていなかったようで、イタリアへと留学した日本人の数は少数でした。


この頃にイタリアに渡った有名な料理人としては、銀座ラ・ベットラ・ダ・オチアイの落合務氏があげられます(1976年渡伊)。落合務氏は1982年に赤坂でイタリア料理店・グラナーダをオープン。開店当初はイタリア料理の知名度も低く連日開店休業状態に近かったようですが、当時のイタリア観光局 局長が来店してその料理を絶賛。以降口コミで徐々にイタリア人で賑わうようになり、口コミにより日本人も多数訪れるようになり連日満席の超人気店へとなりました。


その後1997年に独立しラ・ベットラ・ダ・オチアイを開業。堀川春子氏もよく訪れてはその料理を褒めていたようです。落合氏の元からは多数の優秀な弟子が輩出されることとなりました。日本におけるイタリアンブームの火付け役の一人といっても過言ではないでしょう。なお落合氏は現在でもその腕を振るわれ続けています。


時代が移り変わり、1980年になるとイタリアから帰国した料理人が次々とレストランを出していき、バブル経済も相まってイタリア料理はその認知度を一気に高めていく事となります。


日本イタリア料理ブーム第二の火付け役、 山田宏巳氏の登場

堀川氏や落合氏の後のイタリア料理ブームの先導者となった存在として山田宏巳氏を取り上げないわけにはいきません。1953年生まれの彼は生まれこそ東京でしたが、両親の借金による夜逃げで新潟へと移り住み、その後何の因果か日本初のイタリア料理店であるイタリア軒で働く事となりました。その後イタリア軒を離れた山田氏は東京に帰郷。幾つかのレストランで勤務した後、1982年にイタリアへ留学。そしてフィレンツェの田舎にあるレストランで勤務する事になり「イタリア料理は素材の旨みを最大限に引き出す料理である」という哲学を習得することとなりました。これが後々、日本におけるイタリア料理の方向性に強く影響する事となります。


その後、雇われ店長として原宿で1985年にパスタパスタを開店。当時としては画期的な完全フルオープンキッチンスタイルを採用した同店は、もの珍しさも作用してか大盛況となりました。その後、山田氏は料理人をエンターテイメントとして取り上げた初のテレビ番組・料理の鉄人に出演する事により認知度を高めた山田氏は、1995年に自分の名前を冠したリストランテ・ヒロを青山にオープン。バブルも相まって日本におけるイタリアンブームの先導者の一人となりました。


山田氏の功績は色々ありますが、その一つとして「徹底的に素材にこだわった調理」を日本のイタリア料理に取り入れた事があげられます。山田氏が開発料理として名高いものの一つに冷製トマトのカッペリーニという料理があるのですが、これは当時イタリアでも殆ど無かったソースもパスタも冷製という画期的な料理でした(厳密には1970年代にミラノの料理人、グアルテロ・マルケージがざる蕎麦から着想を得てキャヴィアの冷製パスタを作っていましたが、トマトの冷製パスタは当時イタリアにもありませんでした)


堀川春子氏などの「昔からあったイタリア料理」を支持する層からは滅法評判が悪かった冷製トマトのカッペリーニですが、結局美味いものは美味いというグルメとして当たり前の価値観により日本のみならず本国イタリアでもその手法は取り入れられる事となりました。


山田氏の元で学び巣立った料理人は多数おり、現在でも多くのシェフから天才と称されています。その後、山田氏には様々な苦境が訪れる事となりますが(詳しくは自著である天国と地獄のレシピ参照)、現在でも銀座リストランテ・ヒロでその腕は振る舞い続けておられます。


その後の日本のイタリア料理店事情

その後、本国でパリの調理技術が用いられたヌオーヴァ・クチーナ・イタリアーナが登場するに伴い、日本でもそのスタイルが輸入される事となりました。例えば当時、イタリアでヌオーヴァ・クチーナ・イタリアーナの先駆けとなったグァルティエーロ・マルケージ氏の元で修行していた寺島豊氏が山崎順子氏にスカウトされ、乃木坂にリストランテ山崎がオープン。日本にも郷土料理と一線を画した洗練されたイタリアンが登場することとなります。


1990年になるとイタリア料理はイタメシと呼ばれ大ブームとなります。それまではどちらかというと西洋料理=フレンチだったのに対し、イタリア料理は日本人の口にあったのかフレンチ人気を圧倒的に突き放し、一般家庭にも受け入れられることとなります。


その後はティラミスがブームになったりしつつ、イタリア料理の出店数は劇的に増えていく事となります。その後も日高良実氏による西麻布・アクアパッツァや原田慎次氏による広尾・アロマフレスカなどといった人気店が登場し、日本ではイタリア料理がすっかり定着することとなりました。


この頃から「日本はイタリアの次に美味しいイタリアンが食べられる国」などという評判が立つようになりました。例えば先に書いた広尾・アロマフレスカの原田慎次氏は本場イタリアでの修行がないという当時としてはかなり異色の経歴でしたが、ガンベルロッソ(イタリアで一番有名なレストランガイド)の審査員に「これは紛れも無いイタリアンである」とその料理を絶賛されています。


イタリア料理の定義は難しいのですが、一つには「地方料理の集合体」という事があげられると思います。様々な文化を有する20州におよぶ集合国家であるイタリアは、どの州にも独特の文化・料理があり、そのどれもが異なる個性を有するという特異的な国であります。


20州それぞれを見るとイタリア料理の姿形は様々なので定義しにくい。ただその特徴を抽出すると、総じてイタリア料理というのは「素材の味を限界まで引き出した料理」であるという姿が浮かび上がってきます。その文化を輸入したのが堀川春子氏であり、山田宏巳氏であるわけです。


時々「日本のイタリアンは本物のイタリアンではない」という言説がとりあげられる事がありますが、これは半分の意味では当たっています。本国の郷土料理をそのまま提供するイタリアンが殆どないという意味では、日本のイタリアンは本場のイタリアンとは言いがたい。


その一方で、イタリア料理の真の特性である「素材の味を限界まで引き出した料理」という調理を取っているという点では、日本のイタリア料理は真のイタリア料理とも言えるのです。イタリア人をして「日本はイタリア第21番目の都市である」といわしめる日本は、イタリア本国と何の遜色もないレベルで美味いイタリアンが食える土地でもあります。


個人的には郷土料理としての特性が薄れた日本のイタリアンは自分の定義の中ではTOKYOイタリアンの範疇に入るので、大手をあげてイタリア料理だと主張しにくいのですが、本場ガンベルロッソの審査員が日本のイタリアンを紛れも無くイタリア料理である!と断言しているのですから、日本のイタリアンが本場のイタリア料理の遺伝子を引き継いでいると言っても全くの間違いとはいいきれないでしょう。


最近では日本の食材を使ってつくられるご当地型イタリアンのようなものも登場し始めており、イタリア料理は完全に日本に定着したといってもいいでしょう。本当に日本人の食に対する執念には頭が下がります。

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