箱根駅伝は何故感動するのか。〜スポーツの感動とは〜
やまかわです。新年にあたり1月2日、3日にかけて恒例の箱根駅伝がありました。テレビの前で視聴した人も多くいるのではないでしょうか。
知らない方も多くいると思いますが、私が現在の大学に進学した理由も箱根駅伝にあります。中学の頃から陸上競技をしていた私は幼いながら強く箱根駅伝に出たいと夢見ていました。その為に高校時代も陸上に打ち込み、大学1年目まで駅伝部員として活動していました。確率的に成功する事は無いだろうと諦めてしまった私ですが、同期や先輩と練習した期間は今も強い想い出ですし、特に今回最終学年として大学を背負って走った選手、四年間の死闘を終えた同期には伝えきれない尊敬があります。
箱根駅伝の感動
私自身引退してから、箱根駅伝を見る度感動を貰っていました。ただ、競技をしていた、さらに出場チームに属していた私と一般の人の感動の違いに気づきました。
「選手が脱水症の模様です。蛇行しながらも四年の意地で襷を繋ごうと必死に走ります。」
こんな実況が流れ、翌日の新聞に「感動」の一部として大きく報道されます。今年もそんな場面があり、Twitterには「感動をありがとう」「泣いた」などと発言する人が多くいます。ただ、元競技者、元チームに属した人間からすると、スポーツ場面における適切な感動でないと感じるのです。
メディアの演出による感動の弊害
箱根駅伝に出場する選手の中には、陸上で今後飯を食っていく選手も多くいますし、国を背負うような選手もいます。そんな中娯楽としての「箱根駅伝」がメディアで大々的に報道され、感情に左右された実況が行われる事で選手達は消費され兼ねません。これまで科学が進化したスポーツ界にも関わらず、感情的なメディア報道によって選手、監督が適切な判断を下せなくなってしまうと思うのです。止めるべき状況に止められるセーフティネットは必要だと思いますし、「メディアで作られた感動」は選手、ひいてはスポーツに悪影響を及ぼす可能性があると思うのです。
それでも箱根駅伝に僕は感動した。
メディアで作られた感動があるとはいえ、箱根駅伝、スポーツそのものが持つ感動は大きいものがあります。
あれだけ注目のかかる舞台で身体も頭もいつも通りに動かないプレッシャーの中で走る姿を。
誰もが親を持ち、故郷を持ち、それらの想いを持って、箱根という舞台まで来た事。
勝敗では無い実感を得られるだろうと。
大学の四年間を競技に打ち込んだ事。
彼のここまでの歩みを創造する事。
一歩及ばず舞台を走れなかった人がいる事。
彼らを知っているからこそ、走らない人がいる事を知っているからこそ、僕が得られる感動は違うものがありましたし、感動以上に彼ら全員への尊敬と感謝を抱きました。
僕が伝えられること。
スポーツファンの1人の声でしかありませんが、箱根駅伝だけではなく、スポーツを視る時次の事を意識して見てほしいと願います。
「創造する事。」
彼らがどんな日々を経て、箱根駅伝を走るに至ったのか。彼らはこれからどんな日々を歩んでいくのか。このチームはどんな苦難を乗り越えてきたのか。どんな先輩がいて、歴史があるのか。走れなかった四年生が給水をする事。
これだけで選手にかける言葉、想いが少なからず変わると思います。選手を娯楽として消費するのではなく、本当の意味で応援の対象のとして楽しむ事を。
最後に。
関係の濃い薄いはありますが、四年間走りきった選手、同期に、「僕なりの感動」をありがとうと伝えたいと思います。
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