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八島国もの語り〜弥生時代⑦

いわゆる「弥生時代」にとって変わる「亀ヶ岡文化の時代」という概念を得た今、こんな解説を前にしても、ん?とも思わないが、その時代がより見えてくる一文がある、曰く「約BC3c以降、多摩川流域の沖積低地に、東京競馬場構内遺跡(府中市)など、北部九州系や東海系の弥生土器や集落が出現する。また、沖積低地から離れた丘陵地(白糸台2丁目)からも「人的活動の痕跡」としてではあるが、弥生土器が出土している。ところで、沖積低地から離れたこのような丘を選んで弥生文化を営んだ理由、それは一体何なのでしょう」と。

で、そのような丘陵地の遺物に関して、都内の某考古館に問い合わせを入れてみた。後日「広報担当で門外漢の私ですが、できるだけ資料を集めてみました」とのこと、何ともまぁ、恐縮である。で、その遺物とは「土器片」であり、北部九州系でも東海系でもなく、縄文晩期から見られる「変形鉢型土器」だという。ふむ、つまりその土器片が弥生時代のものだという判別は「推論」によるものなのだろう。

すなわち ①BC3c頃の多摩川流域の沖積低地には、北部九州系や東海系の弥生土器が出土、また関東北域でも弥生文化が出現している ②例えば「白糸台2丁目人」が眼下の沖積低地を眺めて「今まで見たことのない土器などの文化を取り入れた生活、それをどこのウマの骨か知らないが、誰が始めようと知ったこっちゃない、俺たちは御先祖様より伝来の文化を受け継いで、今まで通りこれからも丘の上で生きていくだけだ、にしても、あんな低地を選んで生活域とした理由、それは一体何なのでしょう」と言ったとしても、関東南域のBC3c頃は弥生時代であり、その地に生きる彼らはもはや「縄文時代人」ではないのである ③彼らの「変形鉢型土器」は、縄文〜弥生土層に及んで出土するもので、言わば複合遺跡ならぬ「複合土器」であり、BC3c頃の土層から出土したのだから「弥生土器」である。

ふむふむ。で、趣味人曰く ①BC10c頃に、水田農耕を取り入れた目新しい「亀ヶ岡文化」が北部九州に現れる ②BC3c頃に、関東北域からの南下や東海地域からの東進を経て、それは関東南域に伝来する ③縄文晩期以降、主に丘陵地を定住域としていた「多摩丘陵亀ヶ岡文化人」や「立川丘陵亀ヶ岡文化人」の中には、その新たな亀ヶ岡文化を積極的に取り入れるべく沖積低地へ降りる者もいた ④「白糸台2丁目人」はそうではなく、先祖伝来の丘の上の生活にこだわった人々なのである ⑤一般化し、更に典型化して象徴的に言えば、沖積低地から離れた丘陵地は、同じ「亀ヶ岡文化居住域」であっても「沖積低地集落」に対する「里山集落」である。そこは農耕文化がより本格化したとはいえ「縄文里山集落」の特徴を色濃く残した居住域なのである ⑤水田農耕は「亀ヶ岡文化」の一部なのであり、それが中心部を占めるようになった頃から、すなわち「クニの始まり、国の興り」という事象が、豊葦原の沖積低地その泥まみれクソまみれ血まみれの中から、出現するのである。

ところで「縄文文様のある弥生土器」という解説に出会った時、ん?それって「続縄文時代」じゃね?と感じたことがある。というのも「縄文文化の継承、発展のもとに成立した時代」として弥生時代が解説され、その知見のもとに学校教育を受けたことがなかったからである。渡来の弥生文化が上位にあり、在来の縄文を圧倒したのだと、そんな刷り込みは多分今の子供達にも、であろう。また、特に「亀ヶ岡」の名称にこだわる訳ではないが、縄文の継承、発展のもとに成立した時代の呼び名として好適だと、そう感じるからである。つまり「縄文文様のある亀ヶ岡時代の土器」となる。

ちなみに、埼玉県立歴史と民族の博物館を見学した時のこと、そこの壁面には数十の土器群が、二つの区分けで隣り合わせに展示されていた、縄文土器群と約BC1c以降の土器群とである。その壁面から数歩離れて両区分を見比べてみた、ら、両者共に縄文文様を持つとはいえ明らかな文化相の違い、その時代相の大きな境目が知覚できたのである。それはあくまで「縄文文化の継承、発展のもとに成立した画期となる文化の時代」なのである。


さてはて、難題がある。何をもって「ムラとクニ」を分つのか、また「クニと国」を類別するのか、である。難しい概念定義は止めにしよう、幸いにも、解説図録(鳥取県の考古学 第1集)に口絵がある。それは 「旧石器/縄文/弥生/古墳/律令」時代の「集落/ムラ」を一般化し、更に典型化して象徴的に描いたものだが、こういう「絵解き」は趣味人にはありがたいね、とはいえ、特に「弥生集落/ムラ」の絵図、それを「敷衍訳」しないことには、な。どーせ「もの語り」と言えども、よ。さてはて、ふむ。

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