タカッチ

人生の総括を、ささやかでも、創作のフォルダに納めて奉り、もって、旅立たん

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    昔のノートを元にして、再構成しました。

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巡る思い

縄文人、その文化に興味がある方からの❤️の通知が、なに、続け様に届いた。ふむ「八島国もの語り」だ。再読した。ら、アカシエンシスならまだしも、白人系縄文人などと、あんな着想の導きよその御手は何処から、の思いに揺れた。 うん、ここに再認「縄文時代であれその他、弥生文化にしても、はたまた北海南海の文化にしても、それを担った人々は単一民族だったのか?」である。

    • 八島国もの語り〜口上(終)

      ここが終の住処と地を穿ち石を据えて基礎を伏せ建てた親柱よ仰ぐ空、小屋草葺きの板床に座を敷いて、あん、愛の褥に枕を添えて一期一会の泡沫のササの流れをすくい取りまた飲み干して上気に満ちて至福かな、君、いつの日までか息を継ぎその老後の道をまろび行くのか、あな、願わくは、日の本の八島の陸島海原を定住域となして風天に住所不定の風来にその日暮らしの楽天に終の住処をハスッパにお天気次第にままよと巡るは日常の旅路に果ての行倒れ無理は承知の土葬火葬水葬かいやいや鳥葬もあるのよ風葬なんてどうかし

      • 八島国もの語り〜日本国時代

        古事記外伝、曰く「中国・粱朝は武帝の初め(6c初)頃、大和王統その継統王と云う者現れて「筑紫倭国」を撃ち「大和倭国」を興す。その王、旧王族の忠臣、大連に告げて曰く「長門より東をば朕制らん。筑紫より西をば汝制れ」と。すなわち、大和は斑鳩の地に「皇都」を建て、また、筑紫は太宰の地に「倭京」を築く。後に唱う、倭京の栄華皇都を凌ぐ、いずれが本朝傍流なりや」と。 また、曰く「中国・隋朝の初め(6c終)頃、大和倭国に新羅系蘇我氏の台頭あり、筑紫から「俀国勢力」を駆逐し、仏教文明をして「

        • 八島国もの語り〜王国時代⑩

          中国「旧唐書」に記す「日本国は倭国の別種なり/其の国、日辺に在るを以て、故に日本を以て名と為す/或は曰う、倭国自ら其の名の雅ならざるを悪み、改めて日本と為す/或は云う、日本は旧小国、倭国の地を併せたり/其の人、入朝する者、多く自ら矜大、実を以て対えず。故に中国これを疑う」と。 古事記外伝曰く「倭国の東方に大山あり、その山外に日本国あり、倭国の別種なり、その為人、多く自ら矜大、委の人の別種なり。その国域は時に、出雲倭国や筑紫倭国に属するも、時に、大和倭国には属せず。すなわち、

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          八島国もの語り〜王国時代⑨

          こんな論説がある。曰く「日本列島の王権興亡史とは、長江系文明を後背とする南船系王権と、朝鮮半島経由の北馬系王権との、いわば「南船北馬」の王権興亡の展開であり、更にそこに、もう一つの興亡史が被さっている。それは、この列島の「帰化勢力」としての、伽耶・新羅王権と百済王権との興亡劇である」と。 中国「隋書・俀国伝」に記す「開皇二十(600)年、俀(タイ)王あり、性は阿毎、字は多利思北孤、使を遣わして闕に詣る/俀王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未だ明けざる時、出でて政を聞

          八島国もの語り〜王国時代⑨

          八島国もの語り〜王国時代⑧

          中国「宋書」に記す「高祖の永初二(421)年、倭王讃、万里貢を修む/太祖の元嘉二(425)年、倭王珍、使を遣わして貢献す/同二十年、倭王済、使を遣わし奉献す/同二十八年、倭王興、使を遣わして貢献す/順帝の昇明二(478)年、倭王武、使を遣わして表を上る」 すなわち、古事記外伝に曰く「倭王武の上表文あり「封国の王統は継ぎ重ねて、古の委奴国なり、女王国なり、また狗奴国なり、筑紫第二次倭国の大王その盟主なり。古に記す、使譯の通ずる所三十国、今、下克上の騎馬王その興亡あり、封土国と

          八島国もの語り〜王国時代⑧

          八島国もの語り〜王国時代⑦

          なむ、君よ、矛を突き立て乱舞に騒ぎ掻き混ぜて、滴り落ちる「国家文明」その思想をもって泥田の中に国を造り固めるのか、その所業の中で悪霊は憑き、鼻をつく罪・穢れの烙印はその肉肌に異形の印影を描くのだ、なむ、君よ、環濠集落の楼閣に臨む王よ、見晴らしの高台に国見の居館を構える王君よ、その烙印をいかなる神道の鐸音と聖水をもって祓い流し、いかなる呪術の魔鏡と真言をもって鎮め癒すのか。 なむ、君よ、虚報の付け火に煙り立ち、讒言の耳に家臣を疑い、また親族をもいぶかる、その計略の非情の手口に

          八島国もの語り〜王国時代⑦

          八島国もの語り〜王国時代⑥

          中国「漢書・地理誌」その「燕地」に記す「楽浪海中、倭人有り、分かれて百余国を為す。歳時を以て来たり、献見すと云う」と。また、その「呉地」に記す「会稽海外、東鯷人有り、分かれて二十余国を為す。歳時を以て来たり、献見すと云う」と。 すなわち、古事記外伝に曰く「会稽より望む海外の極その山島、九州は最南の「岬・半島」域にも国邑を為す人々がいた、しかし中国、その体躯・会話の違い著しく、倭種なれどもまた、東鯷人と呼ぶ。時に、遠賀川流域諸国の統一王「筑紫タケル」あり、およそBC2〜1c頃

          八島国もの語り〜王国時代⑥

          八島国もの語り〜王国時代⑤

          中国「魏志・三少帝紀」に記す「(正始四年冬十二月) 倭国女王俾弥呼、使を遣わして奉献す」と。また中国「魏志・倭人伝」に記す「倭人は帯方の東南大海に在り、山島に依りて国邑を為す。旧百余国、漢の時朝見する者在り、今、使譯通ずる所、三十国/其の国、本亦男子を以て王と為し、往こと七・八十年、倭国乱れ、相攻伐すること歴年、すなわち一女子を共立して王と為す、名づけて卑弥呼と曰う」と。 すなわち、古事記外伝曰く「出雲大王その権勢に翳りあり、ここに「出雲王統」の分流諸派はもとより、諸大王の

          八島国もの語り〜王国時代⑤

          八島国もの語り〜王国時代④

          中国「魏志・韓伝」に記す「韓は帯方の南に在り、東西、海を以て限りとし、南、倭と接す/国に鉄を出す、韓・濊・倭、皆従いて之を取る/今辰韓人、皆褊頭、男女、倭に近し、亦文身す/弁辰は辰韓と接す、其の瀆盧国、倭と界を接す」と。 すなわち、古事記外伝曰く「ヤチホコ大王隠棲し後裔の男王立つといえども、その権勢に翳りあり。ここに「出雲王統」の分流諸派はもとより、諸大王の中から「倭国大王」その玉座をうかがう勢力の台頭あり」と。また曰く「筑紫大王圏、その北限は朝鮮半島南域に及ぶ、独自の「鉄

          八島国もの語り〜王国時代④

          八島国もの語り〜王国時代③

          大いなる陸島その東方海隅、日出ずる処の八島国その王国時代にもまた、古事記外伝があった。すなわち「出雲・日本海王国圏/筑紫・九州王国圏/吉備・瀬戸内王国圏/大和・近畿王国圏/尾張・中部東海王国圏/日高見・関東王国圏/津軽・東北王国圏」など、言うなれば「大王国異伝」である。 先ず、信越域を本拠とする「ヘビ大王」が、さらに山陰域に及ぶ日本海王国圏8国の盟主的大王として、擁立された。その文化的特色「月信仰/銅鐸祭器/円墳/ヒメ斎王」をもって現れたのである。時に、ヘビ大王は出雲国に「

          八島国もの語り〜王国時代③

          八島国もの語り〜王国時代②

          古事記外伝曰く、大いなる陸島その東方海隅、日出ずる処の八島に「独創人」すなわち縄文人があった、被髪文身皮服し、またアンギン編みをもって衣服し、竪穴の草屋に住まい、狩猟漁労採集し、また栽培飼育し、数多の命を焼いて煮て生食、すなわち草木鳥獣虫魚の命を「いただきます」と。また飾りの土器をもって汎神汎霊の祭祀に漂い揺れながら、しかし「人神」への礼拝を未だ行うことなく、巫女をもって憑依した命の母性、その霊意にまかせて生きていたのである。 時に、陸島の文明国その夏王の頃、その縄文人海を

          八島国もの語り〜王国時代②

          八島国もの語り〜王国時代①

          時に「棲み分けと交流」が破られた、沖積低地に「環濠のムラ」が現れ「戦争と友好」という国家思想の時代が到来したのである。また「開墾王」が現れてムラを束ねた、また「鉄剣王」が現れてその扇状地を平定した、そして「大王」が現れて平野の国々を連合し「大国の主」となって鎮座したのである。すなわち「石剣の修羅」その「ムラ戦争」が一段落ついた後、金属の武器が現れた、銅の剣であり、また幾百年の春秋を数える間もなく、鉄剣が現れた、果たして、覇道の男達はそこに感じ入ったのである、そのキッサキに魅せ

          八島国もの語り〜王国時代①

          八島国もの語り〜弥生時代⑦

          いわゆる「弥生時代」にとって変わる「亀ヶ岡文化の時代」という概念を得た今、こんな解説を前にしても、ん?とも思わないが、その時代がより見えてくる一文がある、曰く「約BC3c以降、多摩川流域の沖積低地に、東京競馬場構内遺跡(府中市)など、北部九州系や東海系の弥生土器や集落が出現する。また、沖積低地から離れた丘陵地(白糸台2丁目)からも「人的活動の痕跡」としてではあるが、弥生土器が出土している。ところで、沖積低地から離れたこのような丘を選んで弥生文化を営んだ理由、それは一体何なので

          八島国もの語り〜弥生時代⑦

          八島国もの語り〜弥生時代⑥

          いわゆる「弥生時代」の三大特徴を告げる知見がある ①水田耕作や金属器作成における技術的革新 ②社会の階層化や戦争など「国家文明」ならではの事象 ③近隣諸国との交流という国際化、だという。 また、遺物や遺構などの「弥生文化」を具体的に取り上げて、その系譜を辿り三つの類別を告げる知見もある ①縄文文化の系譜〜竪穴住居/畑作栽培/農作用石斧・石刃/土器文様の一部/勾玉/抜歯/網み布など ②外来文化の系譜〜灌漑土木遺構・生産型水田地/大型蛤刃石斧/石包丁/銅・鉄の金属器/銅鐸/ガラ

          八島国もの語り〜弥生時代⑥

          八島国もの語り〜弥生時代⑤

          もう5年以上も前になるのだろうか、長野県の某考古館で、講演用のテキストを一つ手にした。著者は在野の研究者で、それは「縄文人の心」について述べたものだが「縄文農耕」を前提としていて、豊作を祈るその気持ちが土器の文様の中に「田畑」として描かれているという、独特な解説がなされていた。そこに掲載されていた一枚の写真が気になり、直接問い合わせてみた時のこと、「私はねぇ、あの学会とやらに随分な仕打ちを受けましたよ、一研究者の縄文農耕論に対して、何でそこまでして陰湿なイジメをしなくちゃなら

          八島国もの語り〜弥生時代⑤