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八島国もの語り〜王国時代⑧

中国「宋書」に記す「高祖の永初二(421)年、倭王讃、万里貢を修む/太祖の元嘉二(425)年、倭王珍、使を遣わして貢献す/同二十年、倭王済、使を遣わし奉献す/同二十八年、倭王興、使を遣わして貢献す/順帝の昇明二(478)年、倭王武、使を遣わして表を上る」

すなわち、古事記外伝に曰く倭王武の上表文あり「封国の王統は継ぎ重ねて、古の委奴国なり、女王国なり、また狗奴国なり、筑紫第二次倭国の大王その盟主なり。古に記す、使譯の通ずる所三十国、今、下克上の騎馬王その興亡あり、封土国として数多分立、再び百余国なり/昔より祖王自ら山川を跋渉し寧処に遑なく、世々、倭国大王その盟主の玉座を望む、以って、東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十九国」と。ここに順帝、倭王の執拗な「七国の求め」に応じず、百済を外し武を、倭・新羅・任那・加羅・泰韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王に叙すと。

また、曰く「倭王武の倭地を参問するに、東は三大連峰の山外にあり、北陸〜諏訪〜武蔵の国域なり。その東北域に国在るも倭王武、通じること能わず、すなわち、日高見国あり、津軽国あり。また、西は周旋五千余里の瀬戸内海を介在とする陸島域なり、筑紫〜出雲〜吉備〜尾張〜大和〜熊野〜四国の国域なり」と。

また、曰く時に、大和国の王統絶え、山外の毛人国より覇者あり、遠く出雲の王統に通じ、また大和の王統に繋がると、云う。時にその覇王、大和の王統に継ぎ重ね、更に、瀬戸内海を周旋して倭国大王その盟主の玉座を望む、以って、筑紫「石人石馬の大王」に国譲りを迫る。果たして、その大王、南山峻峰の曲に終わり、ここに「大和・第三次倭国」の興りとなると。

また、曰く石人石馬の大王、南山峻峰の阿蘇の地に終わると云えども、古の狗奴国の地へ一子を隠し忍ばせ、また、倭国大王その盟主の証「委奴国王の佩刀」を一子に託す、その船、黒潮の波にまかせて東方へと消えゆく。すなわち、その後裔より「日出づる処の天子」が「筑紫南州」に出現して「第一次日本国」の興りとなり、また遥か東国に、日高見国を併せ、更に尾張国をも合わせゆく「第二次日本国」の勃興となるのである。尚、石人石馬の大王、後葉の「日本国」の始源王と見なされるが故に「百済本記」に云う「日本天皇及び太子・皇子倶に崩薨」とは、定かなれども記述不詳なり。また「日本書紀」に云う「その崩薨、継体二十五(531)年」は「春秋の筆法」なりと。









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