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もの語り「日本創生」〜縄文時代①

一つの鳴動が、この世に轟いた、今から約2万年前の頃、それは第四紀-最寒冷期その終了の時であり、下り続けた海水準は今より約120m も低落、その海底を晒して最期を迎えたのである。

この「最寒冷」は緩むことなく不動にとどまるかに見えた、しかしほころびは進んでいた、数千年間の内部矛盾その拮抗は破れ、もって「温暖」に転じた、すなわち陽光が溢れた、雨の潤いに山野は洗われ花芽は濡れた、風が温和に流れた、星々は青く瞬き、ヤンとばかりにお月様はエロスの袖をなびかせて、ニタとお出ましになった。

して、一つの胎動が、この世に揺れた、その東の極の海原の大島小島の日の本の八島の山陵川辺の丘かなその青森に、それは今からおよそ1万6000年前の頃、その地の人類が初めて手にしたのである、すなわち鉢であり甕であり壺である土器、その文明である。

縄文文明、そこには 終末期を除いて、金属器のカケラも無かった 、人々はもはや地域文化圏内の遊動民としてではなく、定住その所定地内の土着民であり、畑地耕作は行なっていても農耕民ではなかった 、まして「人民」となり、田畑での労役が課せられて使役され、兵役として徴集されることなく、それが男子の使命だと教導される事もなかった 。もちろん縄文前期以降には宗教的権威が存在し、それへの奉仕・奉納は行われたであろうが応能負担が原則であり、その文明経済圏の富の90%以上を、その全人口の数%の人間が支配するというような、都市国家型の文明などではなかった。

すなわち語る、それは四大文明のように大河の泥、その肥沃で広大な堆積地を主食の穀類生産地と化し、また多くの隷属させた人民を従え、また銅や鉄の金属その兵器をもって富の源泉とし、支配層が制度的に確立、各人の地位や階級格差が身分的階層的に固定化され、さらにその正当性を恒久普遍とする神学が支配秩序に組み込まれている、そんな文明ではなかった、それは「勝利・剥奪・支配」という権力の原理に基づく社会ではなく、「共生・共有・親和」を目的とした祭祀型権威によるものであった。

さらに語る、縄文文明における生活様式の基本は何かと問えば、自然との共生、その生業は四季の推移に即した循環・再生型のものであり、自然風土を開拓しそこから収得した「生産の実り」を「善」とし、自然的な「自生の実り」を人知による加工以前の「劣悪」なもの、とするようなことはなかった。

自然は「素材」に過ぎない、というのではないのだ、そこに鍬を入れ人様好みの秩序を与えて「人間化」することが文明であり、未開地との境に城壁を築いて人口空間を設け、その内側での生活様式の確立をもって文明人の自然に対する勝利とするというような、そんな観念を彼らは持たなかったのである。

そうなのだ、「自然のまま」であることは「非文明」なんかではないのだ、縄文の価値観にそのルーツを見い出す者にとっては当たり前ではないか、なぜなら、人はどこから来てどこへ行くのかと問うたならば、縄文その系譜の人々は答えるであろう「自然から出でてその一部として生き末期はそこに帰するのだ」と、ここに人類文明の理由あり、自然を原理とする「誕生-生と死-再生」というような観念が、粛然として確立されていたのだから。

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