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八島国もの語り〜王国時代①

時に「棲み分けと交流」が破られた、沖積低地に「環濠のムラ」が現れ「戦争と友好」という国家思想の時代が到来したのである。また「開墾王」が現れてムラを束ねた、また「鉄剣王」が現れてその扇状地を平定した、そして「大王」が現れて平野の国々を連合し「大国の主」となって鎮座したのである。すなわち「石剣の修羅」その「ムラ戦争」が一段落ついた後、金属の武器が現れた、銅の剣であり、また幾百年の春秋を数える間もなく、鉄剣が現れた、果たして、覇道の男達はそこに感じ入ったのである、そのキッサキに魅せられたのだ、ヌンと、ためらいなくブレずに一気に突き通すこと、それは 武に美を重ね合わせた正義であると。
「いざや、突き通せ、我がままの秩序を鉾立てて、沖積低地の環状その領野に敷き延べよ、恭順の王とは血の盃を交わして親子の縁を結び、たてつく者は誰か、ならば変革をもってその一族の息の系譜を断ち切り、そこに我ら王統の種を蒔いて継なぐべし、おおよ、この肉棒の正義をもってツマゴメに、敵将の女たちを押し伏せてヌンと、猛者のいななきのままにツマゴメに、その肉を開き晒して突き通せ」

あな、シナドの風よ嘆き打て、八重雲を吹き上げてその暴虐を天空に祓い、雷雲の光に撃たせてことごとく砕き散らせ、山よ森よ背を丸めて泣け、しゃがみ込んで涙の川を出だし、その非情を川面に集めて速川の瀬に流せ、そこに坐す神よ、さくなだりに落ちたぎつセオリツ姫よ、その悲しみを大海原に持ち出だせ、またそこに坐す神よ、荒潮の八百路の潮の八百会いのハヤアキツ姫よ、その非情をかか飲みに呑んで海底に運べ、またそこに坐す神よ、イブキドヌシの荒神よ、その非情を根の国に沈め、底の国に気吹き放て、またそこに坐す神よ、さすらいに800年をもって周転し、さすらいに1600年をもって旋回となすハヤサスライ姫よ、その非情を随分にさすらい引き回し、流転の中にうっちゃりやって、鐸音の律に鳴らしてその悲しみへの弔いとなせ。

さて、何をもって「ムラとクニ」を分つのか、また「クニと国」を類別するのか、つまり「それらの形態集落がもつ、それ特有の遺物・文化」というものがあるのか。例えば、土鈴や褐鉄鉱の鈴が後退して銅鐸が出現、それなのか、石の刀剣や槍先、石鏃などが刺さったままの遺骨が決め手になるか、平野部の環濠はもとより、丘陵地での出現がそうなのか、銅鏡の出現か?金属製の武器具か?長大な墓塚の出現や副葬の威信財?朝貢外交?金印?前方後円墳?馬具? ふむ、そもそも「クニ」などという概念設定がどーしても必要なのか?「草創期の国」でいいんじゃね?いやいや、やはりアレなんだろう、王と呼べるのは「大和王」だけであり、国も然り「大和王国」だけなのだ、それ以外は「地方のリーダー」による「クニ」なのである。だからあの金印の「委奴国王」が統治したのは「クニ」になるのだ。中国史書の「国」は普通名詞だが、日本国の「学会書」では、例えば【前方後円墳を頂点とする墓制秩序成立以降のものを「古墳」とする】というように、それは「個別名詞」なのである。うん、趣味人の「史書」から「弥生」を無くしたように「クニ」も消去しちまおうじゃないか、福岡平野その沖積低地に国家出現の「典型」を眺めながら。

すなわち ①北海道と沖縄域を除いてBC11c頃から「亀ヶ岡文化の時代」が始まる ②BC10c頃、福岡沖積低地に「菜畑農耕集落」など数十のムラが現れ、その後百年の間もなく「環濠ムラ」同士の戦争となる。尚、BC9〜8c頃、山陰の沖積低地に「水田集落」が現れる ③BC7〜6c頃「板付環濠集落」など、いち早く銅剣などの金属器文化を入手した、5つほどの有力な「開墾王」の勢力域が形成、その後の戦争は青銅兵器中心の激しさを増す。尚、この頃に北陸や近畿、東海域の沖積低地に水田集落が現れる ④BC4c頃「須玖岡本勢力/鉄剣王」により福岡平野が平定される。尚、この頃に青森平野に「水田集落」が現れる ⑤BC3c頃以降、他の九州平野部も同様にして、鉄剣王によって平定される。尚、関東北域に「沖積低地開墾ムラ」が現れるのはこの頃である。

うん、やはり「戦争による時代の変遷、その新秩序形成」なのであろう、な。で、趣味人の時代区分その俯瞰によれば 、九州北域〜山陰域では ①BC7〜6c頃、開墾王による「王国時代」となり、他の地域は「続・亀ヶ岡文化の時代」となる。なぜ「続」なのか?沖積低地開墾文化の出現はあっても、亀ヶ岡文化と画期を成すほどの興隆とは言えないから、である ②BC4〜3c頃、鉄剣王による「王国時代」となり、北陸や近畿、東海域では開墾王による「王国時代」となる。また他の地域では、未だ「続・亀ヶ岡文化の時代」である。

ここに「卓見」がある(松木武彦/人はなぜ戦うのか/中央公論)曰く「①英雄から支配者に転じた王たちが、それぞれの膝元の都市国家あるいは小王国を先制支配し、それらが林立して睨み合うという構図は、ギリシャでもメソポタミアでも一様に指摘できる。同じ状況は、古代帝国が生まれる前の中国やインドやエジプトでも認められる。問題は、その後だ ②ギリシャの共和制ポリス群、メソポタミアやエジプトの専制帝国。よく知られていりように、経済学や歴史学に偉大な足跡を残したカール・マルクスの考えに照らせば、前者は西ヨーロッパ的な社会発展の出発点であり、後者はアジア的な社会の源流ということになる ③日本の歴史学会では、おしなべて日本の古代国家はアジア的古代国家だとされる ④古墳は、エジプトのピラミッドや中国の皇帝陵と違って、九州から東北南部までのどこにでも築かれている。近畿だけでなく、南九州や北関東にまで、墳丘の長さが200mを超える大古墳は分布するのだ ⑤この大古墳をポリスに置き換えてみると、そのフォーメーションは、各地域に都市国家が林立するギリシャの空間構造に近いことに気づくであろう ⑥けれども、結果として日本の古代国家はアジア型専制国家だという理解が先に立ち、古墳時代の分権的な社会構造が、あまり正当に評価されてこなかったと思う」と。

ふむ、かくあるべしの慎重な「論証」だ、何の「業界」にせよ生き抜くのは容易じゃないやね、用心に用心をを重ねて、な。で、趣味人ゆえにズケっと「大和大王とは、出雲大王や筑紫大王、日高見大王など、数ある連合王権の中の一つに過ぎない」と。




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