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八島国探訪、その時空に漂いながら〜茨城県③

BC 2c
この頃、茨城県内に弥生文化が現れる。①小野天神前遺跡(常陸大宮市)②女方遺跡(筑西市)③ 狢遺跡群(ひたちなか市)など。とは言え、当県内では現在までのところ「弥生の水田跡」の発見は無いという。例えば①②③の場合もその立地は共に「丘陵に接した低湿地」ですらなく、河川流域にある標高約10〜50mの台地である。

で、こんな一文を紹介。曰く、「一般的に縄文文化と弥生との違いは、狩猟・漁撈・採集を基本とした獲得経済から、高い農耕技術が伴う水田稲作を中心にした生産経済への移行に起因する。すなわち①木製のクワやスキなどの農耕具 ②石包丁などの収穫具 ③土偶や石棒を用いた祭祀の消滅による新たな農耕儀礼 ④特に東日本中心であるが、再葬という新たな墓制などである」と。

また、こんな一文も紹介。曰く、「弥生文化の特徴をひも解いてみると、3つの系譜からなることが分かる。すなわち ①縄文文化の系譜として、竪穴住居、畑作栽培、耕作用石斧、土器文様の一部、勾玉、抜歯、編み布など ②外来文化の系譜として、灌漑土木技術、大型蛤刃石斧、石包丁、青銅器、鉄器、ガラス作り、養蚕、機織り機など ③弥生文化固有のものとしては、再葬墓などである」と。

2c初頭
この頃、茨城県内各地には、それぞれに地域色のある小規模の土器文化圏が現れる。ちなみに、関東域の在地系の弥生土器には、縄文の伝統を引き継いだ文様の一部が多分に描かれていて、その継承力は根強い。

3c初頭
この頃、那珂川や久慈川流域を中心とする当県北域一帯に、十王台式土器を地域色とする文化圏が大規模に現れる。

弥生晩期
3c末、この頃に南関東や東海地域の人々の大移動が起こる。当県内にもその地域色のある木器や土師器といわれる土器が現れる。彼らは高度な灌漑土木技術を用いて、それまでほとんど利用されていなかった広大な平野・低湿地帯を開発して集落を形成する。①巡り地遺跡(龍ヶ崎市)②奥原遺跡(牛久市)など

4c始
この頃、当県内に方形周溝墓が現れる。①奥原遺跡(牛久市)②津田天神山遺跡 ③下高井遺跡(②③共に、ひたちなか市)など。また、環濠集落の溝や土塁の一部と見なし得るものが出土している。屋代A遺跡(龍ヶ崎市)など。

ここで、こんなふうに叙述。すなわち、「中国史書で王と認定された弥生王者は、自らの聖域を溝で区画して他の成員との居住を区別していた。とはいえ、同一の環濠集落内部でその役割を果たしていたのである。対して古墳王者は、やはり自らの居館を周濠で仕切り他の成員との居住を区別しながら、さらに同一の集落内で過ごすこともなく、そこから離れた場所、多くは見渡しの国見の高台その南面の玉座に坐しましていたのである」と。

ちなみに、現在までのところ茨城県内における「古墳王者」の居館としては、佐久上ノ内遺跡(石岡市)などの 8 遺跡が確認されているという。

4c末
この頃、当県内の河川をのぞむ台地上に「古墳」が現れる。①丸山古墳(石岡市)②日下ケ塚古墳(大洗町)など。尚、①は前方後方墳 、副葬品として銅鏡、鉄剣、銅鏃、玉類など。②は極めてイビツな前方後円墳、同様に銅鏡、木製の櫛、玉類など。ちなみに ①②の銅鏡は共に、三角縁神獣鏡ではない。

5c〜6c
5c中頃以降になると「古墳」が次々に現れる。その中には、例えば同じひたちなか市域であっても ①大平古墳群のように前方後円墳が基軸となってグループ形成されるものや、②老ノ塚古墳群のようにそれを全く持たないものもある。その他 の遺跡としては ③三昧塚古墳(行方市)④金上黄金塚古墳(ひたちなか市)⑤舟塚山古墳(石岡市)など。尚、③からは馬具 ④からは馬形埴輪が確認、⑤は関東域で第2の規模を誇るが、ほとんど発掘されていないという。

また、6c中頃になると、河川にのぞむ台地斜面に埴輪窯跡群が現れてくる。①小幡北山埴輪製作遺跡(東茨城群茨城町)②馬渡埴輪製作所(ひたちなか市)など。

7c(古墳時代終末期 / 飛鳥時代)
この頃になると、茨城県内では前方後円墳が現れなくなり、かわって方墳が増加するようになる。また方墳や円墳が狭い区域に密集する群集墳も増加するようになる。武者塚古墳(土浦市)など。

当県北域では、①十五郎穴横穴群のような横穴墓や ②虎塚古墳 ③金上古墳などの装飾古墳も現れてくる。(①②③共に、ひたちなか市)

さて、ここで後に予定の「もの語り」を念頭において、次のように膨らませて叙述してみようと思う。

すなわち ①562年の新羅による任那の滅亡を契機にして改革派の蘇我氏が台頭 ②彼らは仏教色の濃い大陸文明の導入を掲げて守旧派と対立、もって587年には物部氏が没落 ③その余波は北部九州域を発して近畿域、また関東域にも全国的に及ぶ ④その頃の茨城県域には6国があり、それぞれの国主である古墳王者は関東盟主である毛野国大王から評督の官名を授与され、もってその国を統治していた ⑤この関東盟主毛野国大王は倭国盟主筑紫国大王と同盟を結び、もって筑紫都督府の信任を得ていた ⑥各国の評督にとっては蘇我新体制と仏教文明受容への対応が主題となる 。反発する者、迎合する者、様子見に機をうかがう者、などなど ⑦新羅による百済の危機を契機に中臣氏が台頭、もって645年の乙巳の変、660年の百済滅亡と663年の白村江への出兵など、その余波はまた茨城県域にも及ぶ。今度は中臣新体制受容への対応が主題となる 。

すなわち日本書記をもって記述すれば、「646年の大化改新の紹にもとづき7c後半には国・評(のちの郡)制が成立、諸国においては国司に任命された中央貴族が、評の役人となった在地豪族を通して政治が行われる時代になったのである。この頃の茨城県域には6国があり、多珂、久慈、那賀、茨木、新治、筑波を合わせて常陸国とし、現在の石岡市に国衙が置かれた」となる。

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