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八島国もの語り〜王国時代⑤

中国「魏志・三少帝紀」に記す「(正始四年冬十二月) 倭国女王俾弥呼、使を遣わして奉献す」と。また中国「魏志・倭人伝」に記す「倭人は帯方の東南大海に在り、山島に依りて国邑を為す。旧百余国、漢の時朝見する者在り、今、使譯通ずる所、三十国/其の国、本亦男子を以て王と為し、往こと七・八十年、倭国乱れ、相攻伐すること歴年、すなわち一女子を共立して王と為す、名づけて卑弥呼と曰う」と。

すなわち、古事記外伝曰く出雲大王その権勢に翳りあり、ここに「出雲王統」の分流諸派はもとより、諸大王の中から「倭国大王」その玉座をうかがう勢力の台頭あり、もって倭国大乱となる。果たして筑紫大王、博多湾を望む王城に迫る、出雲大王の「現地皇子」在り、その子、成敗の矛をかざせども、臣民動かず、開城して命脈を請い、以って北面し、筑紫大王に額をつく」と。

また曰く筑紫大王、或はまた、諸侯を出雲の王宮に遣わして、或はまた、国譲りを迫る、しかし、事成らず起こらず、以って吉備王に委ねる、その大王、大和王に委ねる、その大王、尾張王に委ねる、その大王、関東諸王に頼み寄る。時に、噫(あい)と声に答える王在り、その王「雷のタケル」を遣わして迫る、国譲り成る、以って筑紫大王その玉座に着いて南面すると。尚、そのタケル「出雲冶金術」を持ち帰り来る、後に、その関東王こそが「日高見大王」として立つ者であり、その後裔こそが、後の「関東日本国・騎馬大王」として出現するのである。

また曰く筑紫大王、玉座に着き、尚もまた「ヒコ斎王」としての君臨を望む、しかし国中服せず。その大王、案外の極みに沈み、途方の果てに暮れて夢に泣く、すなわち、ヤチホコ大王、枕元に顕れて告げる「高殿に吾を祭れ、芸を尽くした太柱その宮柱をもって天空に斎き祀れ」と。また告げる「筑紫の邪馬壹国に赴き訪ねよ、吾が現地皇女にしてヒメ斎王在り、倭国女王として迎い入れ、その後盾となって勤めよ」と。果たして、国中から噫(あい)の声湧き上がり、ここに「筑紫・第二次倭国」の興りとなると。

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