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八島国もの語り〜王国時代⑨

こんな論説がある。曰く日本列島の王権興亡史とは、長江系文明を後背とする南船系王権と、朝鮮半島経由の北馬系王権との、いわば「南船北馬」の王権興亡の展開であり、更にそこに、もう一つの興亡史が被さっている。それは、この列島の「帰化勢力」としての、伽耶・新羅王権と百済王権との興亡劇であると。

中国「隋書・俀国伝」に記す開皇二十(600)年、俀(タイ)王あり、性は阿毎、字は多利思北孤、使を遣わして闕に詣る/俀王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未だ明けざる時、出でて政を聞き、跏趺して坐し、日出ずれば便ち理務を停めて云う、我が弟に委ねんと。

また中国、記す大業3(607)年、俀、使を遣わして朝貢、国書に曰く「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや」と。煬帝これを覧て悦ばず/大業4年、煬帝、文林郎裴清を遣わして俀国に使せしむ/同年、俀、復た使者をして清に随い来って方物を貢せしむ。此の後、遂に絶つと。

また、中国「隋書・帝紀」に記す大業四年二月、、使を遣わして方物を具せしむ/大業6年春正月、倭国、使を遣わして方物を具せしむと。

すなわち、古事記外伝に曰く石人石馬の大王、南山峻峰の曲に終り、ここに大和国継統の大王、忠臣の大連に告げて曰く「長門より東をば朕制らん、筑紫より西をば汝制れ」と。その後、阿蘇の地、九州南域に大王立つ「吾れ、石人石馬の大王その後裔なり、古の委奴国に繋がる」と。倭種国なれども「大和倭国」に属せず、百済と通じて仏法文化を習い興し、更に九州北域を制り治めて中国と通じる。すなわち「東夷と云う海東の菩薩天子、素と北狄と云う海西の菩薩天子に書を致す、恙無きや」と。隋帝、これを悦ばず「無礼なり、倭種なれども倭国にあらず、以て、俀国と呼ぶ」と。後に其の国、自ら其の名の雅ならざるを悪み、また、日向日辺に在るを以て、改めて日本と為す。此の後、遂に絶つと。

また、曰く大業四年八月、隋帝、裴世清等を遣わして倭皇を問う「皇、民庶を撫寧す、境内安楽、風俗融和、深気至誠にして、遠く朝貢を修るを知る、正に委の人なり、古の委奴国に繋がるか」と。同年末、大和倭国、遂に俀国を撃つ/大業6年春正月、倭国、使を遣わして方物を具せしむ。ここに名実ともに「大和・第三次倭国」の開府となる。時に、転じて泳ぎ見れば、海上に船あり、黒潮にまかせて東方へと消えゆくと。




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