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八島国もの語り〜弥生時代⑤

もう5年以上も前になるのだろうか、長野県の某考古館で、講演用のテキストを一つ手にした。著者は在野の研究者で、それは「縄文人の心」について述べたものだが「縄文農耕」を前提としていて、豊作を祈るその気持ちが土器の文様の中に「田畑」として描かれているという、独特な解説がなされていた。そこに掲載されていた一枚の写真が気になり、直接問い合わせてみた時のこと、「私はねぇ、あの学会とやらに随分な仕打ちを受けましたよ、一研究者の縄文農耕論に対して、何でそこまでして陰湿なイジメをしなくちゃならないのか、その手口は全くヤクザと同じですよ」と。

そんなことを言ったらヤーさん達が憤慨しますよ「俺たちはそこまでメメしく陰湿じゃあない、そこまでやるくらいなら、ドスとハジキでケリをつけてやる」ってね。とても私には「論証」などという沈着な作業は性に合わないから「もの語り」としてブッ放して、思う存分楽しんでやろうと、そう思ってますよと言ったら「ハハハ」と、しゃがれた声で、じき90に手が届くのだと、そう答えておられたが。

その学会とやらもイヤイヤグズグズケチケチと、こんな御答弁「縄文時代にコメが存在したのは多分に事実かもしれない、しかしコメを作っていたという非推論的な事実、自明と言い得るほどの直接的な証拠はまだ見つかっていない」云々と。

さて、お次は鉄についての御答弁「弥生時代の始まりをBC10cに引き上げた結果、その時代早期の鉄が中国文明のそれより400年以上も古いものになってしまう。それはあり得ないので、再検討したところ朝鮮半島出土の鉄よりも少し新しい年代のものと判明、やはり中国→朝鮮→日本へと伝来したのである」云々と。ら、それはあり得ないという「信念」以外の根拠、非推論的な事実であり、自明と言い得るほどの直接的な証拠は、もう見つかったのかい? そうなんだ「いつか来た道マタゾロ」と、あの旧石器出土の「国府遺跡」と同様の結末、再々検討したところ、れ、となるであろう 。で、趣味人の「想念」によれば 「日本→朝鮮→中国、そして中国→朝鮮→日本」の道筋だけれども、な。

どーも、最近感じるのことだが「大和朝廷一元論」による皇国史観と「中国文明起源説」による渡来人史観は「同根」じゃね? 正義はもとより美も真も、その根拠は「政治力」だとする党徒たち、表向き敵対しているようでも、裏で繋がっている「祖国喪失組の同勢力」じゃないのか、え?

ところで、各地の考古館巡りを行ってみたが「弥生土器編年」の解説パネルを目にしたことがない。旧石器や縄文土器のそれならば、当たり前のように展示されているのに、である。それを図表にすれば、何か「不都合」が露わになるのだろうか? ふむ、いや、その作成は極めて困難なのだろう。というのも、北部九州に「弥生文化」が花咲いて約400年も過ぎて、やっと近畿域に弥生のヤの字が現れるのであり、中部域以東ではヤの字どころか、言わば「続縄文時代」である。そして、BC6c頃といえば北部九州域や山陰域では「クニ」出現の年代であろう。

で、思う。先ず①「同じよう見える弥生土器でも、一つの地域内では時期によってその型式に違いがある」という命題、その地域型の「弥生土器編年」は成立可能である。また②「同じ時期でも、日本列島の地域によってその型式に違いがある」は成立困難である。つまり、弥生文化の現れ時期が地域によって大きなバラつきがあり、例えば「全国的な弥生時代初期」という区分は困難だからである。ところで ③例えば、種子島への鉄砲伝来以降を「鉄砲時代」と呼ぶことは困難であろう、いち早く大量に入手した領域も有れば、その威力を見せつけられてから、という領域もあり、瞬く間に日本全土に伝播した、ではないからである。つまり「同じ時期でも日本列島の各域によってその型式に違いがある」という全国的な「鉄砲編年」は成立困難である。以上のことから ④そもそも「弥生時代」とは「一時期による弥生文化の全国的伝播」を前提とした呼び名であり、それが崩壊したのだから「弥生」という時代区分は困難となる。よって⑤「地域型文化人」としての弥生人は出現したが「時代人」としての「弥生人はいなかった!」となる。

あれれの、ら、「風が吹けば桶屋が儲かる」以上の「論理的帰結」となりました。じゃぁ、何時代と呼ぶのか?ふむ、その頃一時期において全国的に伝播した文化といえば、ふむふむ、よって「亀ヶ岡時代」である。その後、BC3c頃には九州〜近畿域では「王国時代」へと、中部域以東では「続亀ヶ岡時代」を経て西暦元年頃には、王国時代へと変遷していくのである。

ちなみに、静岡県の「埋文」では「東海地域の木製農具編年図」を目にしたけれどもね、どーせなら弥生土器の方も、お願いしたいけどね。

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