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八島国もの語り〜弥生時代⑥

いわゆる「弥生時代」の三大特徴を告げる知見がある ①水田耕作や金属器作成における技術的革新 ②社会の階層化や戦争など「国家文明」ならではの事象 ③近隣諸国との交流という国際化、だという。

また、遺物や遺構などの「弥生文化」を具体的に取り上げて、その系譜を辿り三つの類別を告げる知見もある ①縄文文化の系譜〜竪穴住居/畑作栽培/農作用石斧・石刃/土器文様の一部/勾玉/抜歯/網み布など ②外来文化の系譜〜灌漑土木遺構・生産型水田地/大型蛤刃石斧/石包丁/銅・鉄の金属器/銅鐸/ガラス製品/養蚕/機織り機/兵器具としての剣・鉾・鎧など ③弥生文化固有の系譜〜遠賀川系土器/木製農工具/再葬墓など。尚、この再葬墓は縄文文化の系譜とする説もある。ふむ、とすると「弥生文化」とは「派生的部分的な文化」じゃね?

で、こんな一文を紹介。①典型的な弥生式土器の文様と言われていた弥生前期の重弧文であるが、東北地方の亀ヶ岡式土器文様の影響であることが判明 ②また土器分析から、東北の晩期縄文人が南下して来て西南日本各地の人々に、亀ヶ岡式の精緻で華麗なデザインの土器製作を伝授したことも判明 ③更に、そのような土器はBC10〜9c頃、九州北部で本格的な弥生文化が誕生する時期に限って、奄美大島/九州/中国/四国といった広い地域から出土することが判明 ④つまり、西南日本の弥生文化の成立に、彼ら東北縄文人が深く関係していたことが判明したのである。

この一文を初めて目にした時「本格的な弥生文化が誕生する時期に限って」の部分に引っ掛かりがあったが、なぜ限るのかと、再読した今回それが判然とした。うん、そう遠くない日に「かの達見」が公式見解となるであろう「弥生時代はなかった!」と。

で、ここに趣味人の一文、そのもの語り。①東北地方北域、亀ヶ岡式土器文化期には「縄文農耕」を中心にした人々が生活していた ②BC11c頃から「寒冷期」が到来、不作を厭った人々が南下し始め、比較的温暖な日本各地に移住した ③新天地で彼らは、棲み分けと交流をもって地元の人々と共生し、その高度に発達した農耕文化を展開した。すなわち、陸稲やアワ、キビ、豆類などの畑作農耕であり、堅果や果実などの栽培農作である。また④猟犬はもとより猪などの飼育も行い、漆を採取して祭祀用の器具の作製など、目を見張るような「縄文里山文化」を日本各地に、またたく間に展開したのである ⑤その展開は一時期に限ったものではなく、継承・発展のうちに「縄文文化」と一戦を画するほどの農耕中心の文化となり、北海道域と沖縄域を除いて「亀ヶ岡文化の時代」その開幕を告げたのである ⑥BC10〜9c 頃に、九州北域で「水田文化」の誕生となるが、それはあくまで「九州亀ヶ岡文化」の中で派生的に生まれた一つの文化に過ぎないのであり、九州域はもちろん他の亀ヶ岡文化域にまたたく間に伝播され、かつ、時代を刷新するほどの文化力ではなかったのである ⑦BC6c頃には、北部九州域や山陰出雲域では「亀ヶ岡文化ムラ」が集約されて「クニ」の出現となり、更にBC3c頃には「開墾王」に統治された「国」の出現となる。すなわち⑧この両地域では「王国時代」の幕開けとなるが、他地域ではそのような画期の表れはなく「続亀ヶ岡」と呼ばれるの時代となるのである。

ところで、亀ヶ岡文化の作用を強く受けた土器物が日本列島各域から出土しているが、もちろん「亀ヶ岡式土偶」のもつ、破格的で精緻な造形には「叙述」の文言も無いが、そんな「大作」ではない「逸品」も出土している。その名は「漏斗(ロウト)状透かし彫り付き耳飾り」と、非芸術的に呼ばれているが。ふむ、そこは「群馬県立博物館」だった、主要展示室とは違う一室、そこに展示されていた作品であった、なん、お洒落で洗練された装身具だ、しかも尊厳に溢れいて「尽きぬ限りに満たさん縄文美学その亀ヶ岡式の匠をもって」である。


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