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八島国もの語り〜王国時代⑥

中国「漢書・地理誌」その「燕地」に記す「楽浪海中、倭人有り、分かれて百余国を為す。歳時を以て来たり、献見すと云う」と。また、その「呉地」に記す「会稽海外、東鯷人有り、分かれて二十余国を為す。歳時を以て来たり、献見すと云う」と。

すなわち、古事記外伝に曰く会稽より望む海外の極その山島、九州は最南の「岬・半島」域にも国邑を為す人々がいた、しかし中国、その体躯・会話の違い著しく、倭種なれどもまた、東鯷人と呼ぶ。時に、遠賀川流域諸国の統一王「筑紫タケル」あり、およそBC2〜1c頃、筑紫北州を平らげて南下、筑紫島の大王と成るべく遠征し、諸国のタケル王と争乱に相まみえ、以って博多王都に凱旋する。時に、数多の東鯷人その南下を厭い、黒潮に任せて東遷を果たす者あり。すなわち、怨嗟の声渦を巻き、その耳に誅殺の歌が張り付いたからであると。

その歌奴らは旧人類の血脈、生理レベルの動因に操られた生命体だ、相手を騙して出し抜く知恵もなく、自説を押し通して真善美とする剛力もない、底抜けの温情をもって愛を注ぎ合い、アナタのアナタ、アナタ故のアナタだからオマエのオマエだと言って二人称の関係、その和合の内に噫(あい)とウナヅキ合って生きている、それは人格以前の土人だ、故に「国家文明」その論理のままにことごとく、土器はもとより銅鐸のカケラさえ余すことなく、鉄の力学に任せて叩き潰せ

更に、曰く先ずその地の環濠集落、約されて首長国二十余国となり、後にBC1c頃、三王国に統合されて分立、その中に狗奴国があった。時に紀元前後の頃、筑紫大王北面して「倭国・委奴大王」を盟主として仰ぐとき、狗奴国王、呉地の王に通じて漢に献見、その後大王として立ち「筑紫・南州王国」の興りとなる。以って北州王国とは和せず、すなわち「筑紫・北州八王国」の大王とは組せずと。

また曰く南州王国その中に「日向皇子タケル」有り、我は東鯷人なれども亦、倭人なり、筑紫タケルの後裔なりと。時に、狗奴国大王君臨の頃、東遷の果てかな熊野の半島に流れ落ち、また山中を泳ぎ回り、まほろば大和その山辺の地に着座して、息を継ぐと。

また中国「魏志・倭人伝」に記す女王の境界の尽くる所、其の南に狗奴国有り、男子王為り、其の官に狗古智卑狗有り、女王に属せず/倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず/卑弥呼以て死し、大いに冢を作る/更に男王を立てしも、国中服せず、更々相誅殺し、当時千余人を殺す。復た卑弥呼の宗女、壹与十三なるを立てて王と為し、国中遂に定まると。

すなわち、古事記外伝に曰く筑紫南州大王の北上、菊池川等その流域の沖積低地を調略し、倭国女王の都する処、邪馬壹国に迫る、卑弥呼以って死し、南州大王、太宰府を王都と成して立つも、国中服せず。ここに大王、案外の極みに沈み、途方の果てに暮れて夢に泣く、すなわち「筑紫タケル」枕元に顕れて告げる「およそ800年をもってヒコ斎王を王宮の裏に回し、およそ800年をもってヒメ斎王の陰に隠せ」と。また告げる「卑弥呼の宗女、壹与十三なるを立てて倭国女王と為し、その後盾となって勤めよ」と。果たして、国中から噫(あい)の声湧き上がり、ここに「倭の五王」はもとより「タリシホコ大王」及び「磐井大王」など「筑紫倭国・南州王統」の興りとなると。

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