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八島国もの語り〜王国時代③

大いなる陸島その東方海隅、日出ずる処の八島国その王国時代にもまた、古事記外伝があった。すなわち「出雲・日本海王国圏/筑紫・九州王国圏/吉備・瀬戸内王国圏/大和・近畿王国圏/尾張・中部東海王国圏/日高見・関東王国圏/津軽・東北王国圏」など、言うなれば「大王国異伝」である。

先ず、信越域を本拠とする「ヘビ大王」が、さらに山陰域に及ぶ日本海王国圏8国の盟主的大王として、擁立された。その文化的特色「月信仰/銅鐸祭器/円墳/ヒメ斎王」をもって現れたのである。時に、ヘビ大王は出雲国に「ヒメ斎王」の奉献を求めた、が、出雲国王この度は難色に面を伏せた、頼りとなる最愛の娘が恋に落ちてしまったからである。相手の男子、冶金の術に覚えあり、遥か西域「スサ王国」の系譜に繋がると云う、計略を仕掛けてヘビ大王に挑み、これを斬り倒し「スサ大王」として、初代出雲大王の玉座に就いたのである。その文化的特色は継承されて、同様のものとなる。およそBC2c頃である。

その後、およそ紀元前後の頃、新たな文化勢力が台頭し、王統を継いだ。稲穂の守り神として「巻き尾の犬」を祀る信仰であり、特に出雲大王5代「イヌ王」の頃、九州北域への西進が始まった、果たして筑紫・九州大王との盟約を成し、あくまで「ヘビ継統王」として、中国より蛇をモチーフにした造形の金印「漢委奴国王」を賜ったのである。すなわち九州北域〜山陰〜信越域に及ぶ日本海王国圏16国の盟主的大王として、擁立されたのである。

尚、その新たな文化の大きな特色とは、王墓は「トグロ巻き」の円墳から「犬伏せの姿」をモチーフにした「四隅突出型方墳」の出現となり、祭器は銅鐸から前漢鏡へと移りゆくのである。特に「ヒメ斎王」の性格に違いが現れ始めたのであり、言うなれば「銅鐸に鎮まる月読みの巫女」から「銅鏡をかざす日継ぎの巫女」への変遷となって行くのである。

更に、AD1c頃、出雲大王7代「ヤチホコ大王」による南進が始まり、吉備・瀬戸内大王や大和・近畿大王、尾張・中部東海大王との盟約を果たして「倭国30余国の盟主」として君臨、処処の港に王宮を建て、特に見晴らしの博多湾岸その丘陵地には「筑紫王都」を築いて、使いをもって中国に渡航、いやさかと朝見を成したのである。すなわち、後世の国内文字資料に現れた「出雲・第一次倭国」の興りである。尚、出雲王統の象徴的古墳である四隅突出型方墳は、東北地方南域でも確認されており、後に、その勢力を出自とするという関東人や東北人の常人から「日高見大王」や、更に「津軽大王」が出現してくるのである。

すなわち、国内文字資料「常陸風土記異伝」に曰く「出雲倭王の皇子タケルの東進、それは信越〜碓氷峠〜北関東〜東北南域に及ぶ」と。尚、この遠征譚は後に「筑紫・第二次倭国」の公権力により「倭王武」の功績として公認されるのである。

また国内文字資料「出雲風土記異伝」に曰く倭国30余国の各国に、およそ10余の首長国あり、時に、出雲大王ヤチホコその玉座を後裔に託し、自ら「ヒコ斎王」として隠棲、もって王国の栄華その末広を念願して聖域荒神谷にて祭祀を挙行、すなわち30有余の大王や300有余の「臣」に銅剣を下賜し、埋納したと。尚、この荒神谷では出雲大王5代「イヌ王」の時にも祭祀を挙行、16本の銅矛と6個の銅鐸が「縄文土偶埋納」信仰の残照かな、土中に祀られたのである。


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