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渡米35日目 僕はここで一体何してるんだ?

昨日はリンカーン小学校が休みだったため、3連休を終えて子ども達の1週間が始まった。午後から夕方にかけて行われる大学院の授業が多いため、毎朝、子ども達を見送ることにしているが、妻はパパが見送るなら私は迎えにいくねと、今朝から子ども達を見送るのは僕の仕事になった。

リンカーン学校では、低学年は7時55分になると学校の扉が開く。学校に到着するとまだ少しそれまでには時間があったが、次男は仲のいい友達の姿を見つけると駆け寄って行って話をしている。一方、高学年の長男はすでに教室に入れるため、到着するとすぐに建物の中に消えていった。

Fiction Film Directing(監督クラス)も第4周目に入った。今後、この秋学期をかけてそれぞれが実在する映画(「Pariah」または「Martha Marcy May Marlene」)のワンシーンを監督することになっていて、今日の宿題は、実際に自分自身が監督するシーンのイメージにある写真を見つけてレファレンスを作成して提出し、かつその作業の中で何を学んだかのエッセイを書くというもの。僕は「Pariah」の中のデリケートなワンシーンを監督することに決め、そのイメージに合う写真を選び、クラスでプレゼンした。この映画を僕はまだ見たことがなく、もし見てしまうと先入観が生まれてしまうので、敢えて今は作品を見ないことにしている。

監督としてそれぞれが選んだシーンをいかに描き出すか。そのイメージを明確にするためのトレーニングとして、今日はまた別のある映画のワンシーン(僕たちにはどの映画か明かされていない)の脚本を渡され、その脚本を読んでそれぞれが理解し難い「Mysterious Line」(謎めいたセリフ)を選びだし、その言葉の背後にどのような「Subtext」(隠された意図)があるのかを推察する「脚本分析」に時間を費やす。

「Do you want to fool around with me?」

その脚本の中に、ある女性が相手に対して発するこのようなセリフがあった。直訳すると「私とふざけたいの?」という意味になるが、つまり私と性的な関係を持ちたいのかどうかを尋ねる誘惑の意味を含んだセリフでもある。おそらくとても口語的な表現で、ネイティブならばすぐに意味がわかる内容のものだ。だが、僕にはその言外の意味がつかめなかった。

「Truth or dare?」(真実か、挑戦か?)

またその脚本のワンシーンは、このように尋ね合うところから始まる。これは、こちらで子ども達がよく遊ぶゲームの1つで、指名された人が「Truth(真実)」もしくは「Dare(挑戦)」を選択し、「Truth」を選べば、どんな質問に対しても正直に答え、「Dare」を選べば、相手から指示された内容を実行するというものだという。

後々調べると「あーそういうことだったのか」と腑に落ちたのだが、この4ページの脚本を教室で読んで議論しているときには、残念ながら、このシナリオの深い隠された意味を読み込むどころか、アメリカ人であれば誰でもわかる程度の会話のやり取りすら理解できていない自分がいて、なんだかとても置いていかれてしまっているような疎外感にも似た気持ちを感じざるを得なかった。

また今日は、それぞれの生徒に割り振られたリーディングの課題を読み込み、先生役となってクラスの議論をリードする「ディスカッションリーダー」の役を担当したが、教授のジュリアが僕の進め方を見ていて少し頼りなく感じたのか、途中で彼女に乗っ取られてしまう形となり、上手くクラスの議論をリードできなかった。自分自身の語学力の至らなさなどを素直に認めざるを得ない一日となり、敗北感にも似た気持ちを覚えた。

ネイティブではないのだから仕方がない。わからないこと、できないことがあるのは現時点では仕方がない。そこに至るプロセスをおろそかにしなかったのであれば、思い悩んでも仕方がない。わからないことを、わからないままにせず、一つ一つ謙虚に解消していくしかない。そう自分に言い聞かせる・・・。

4時間に渡る監督クラスを終えて、図書館に向かい、ボストンの日本総領事館に提出する子ども達の「教科書の事前申込書」を印刷し、署名し、スキャンして帰りの電車の中でせわしくメールを送った。本来は昨日までに提出しなければならなかった書類だが、妻がギリギリ昨日見つけてくれて、一日すでに締め切りを過ぎていたし、日本の教科書の受け取りに必須になる「在留届」もまだ提出できていないので申請したところで無事に受理できるかどうかもわからないが、引っ越ししてきたばかりである事情も添えてひとまず送ることにした。

大学の最寄り駅のBoylston駅から自宅の最寄り駅Brookline Hills駅までは15分から20分程度。僕は席につくといつものようにすぐにパソコンを開き、溜まりに溜まった続きの作業を始める。

しばらくすると、ふと聞いたことのない駅の名前が耳に入ってきた。僕が通学に使っているグリーンラインには、4つの路線があり、終点「Riverside」方面に向かうDラインに乗らなければならないのだが、どうやら電車を乗り間違えてしまったらしい。

急いで次の駅で降り、途中駅のKenmore駅まで引き返すべく反対方面のホームに線路を跨いで渡るが、次の電車は全く来る気配がない。20分ほどして電車がやってきてようやく二駅先にあるKenmore駅まで引き返す。トラムに乗り込む前に、ある学生が「パスを忘れてしまったので私の分も払ってくれないか」と周りの人に声をかけている。助けるべきか否か、迷っている間に親切な人が現れて、僕は自分の人間のちっぽけさを感じた。

Kenmore駅に到着し、そこからまたDラインがやってくるのを数十分待つ。夜になるとDラインの数が極端に少ないのか、A、B、Cのラインはそれなりにやってくるのだが、なかなか僕が乗るべきDラインはやってこない。Kenmore駅で電車を待っていると、どの電車に乗るべきか、ふと道を尋ねられる。僕もすでにこちらに住んで長い人のように、第三者からは見えているのかもしれない。

ようやくRiverside方面のDラインがやってきて、僕は電車に乗り、またパソコンを開いて溜まりに溜まった課題をこなすべく作業を再開する。そうこうしているうちに目的のBrookline Hills駅を乗り越してしまい、仕方がなく一つ先の駅で降りた。

「僕はここで一体何をしているんだ?」

全く人気のない駅で、次の折り返しの電車がやってくるのにもあと20分近くかかるという。すでに気温は10度前後と肌寒い。全て自分の注意不足から生じているミスなのだが、孤独感が拭えなくなってきた。ようやく折り返しの電車がやってきて23時前の乗り込むと車内には僕一人で他には誰も乗っていない。駅からの帰り道、やはり人気の少ない道のりを歩いていて、なんだかとてもここで暮らしていることが侘しく思えてきた。まだこれが賑やかなニューヨークの街中であれば、気持ちも違ったのかもしれない。僕たちの暮らすブルックラインは閑静な住宅街といえば聞こえがいいが、完全なクルマ社会でこんな時間帯に道を歩いている人などいない。安全上は治安もいいので全く問題ないが、今日一日感じた理想と現実のギャップのようなものが去来して、おそらくボストンに来て初めて、とても後ろ向きな気持ちになった。

僕はカバンからイヤホンを取り出し、親友の豊が撮影してくれた動画を再生した。それは僕が、渡米直前の7月17日に南青山マンダラで行ったワンマンライブの映像だ。

いま 世界が変わっていく
なぜ 今年も花が咲くのに
今僕らには敵がいる
それが 何者かわからないよ
見えない敵は どこにいるの
空気の中か この心の中か

第三部のステージの一曲目、「神々よ いま歌え」の歌詞を聴いていると、本来、この曲は3年前のコロナ禍の最中に書いたものだったが、なんだか今の自分自身への応援歌のようにも聴こえてきた。おめでたい話だが、僕は自分が書いた曲に励まされていた。

神々よ 今歌え それぞれのハーモニーで
天国にも地獄にも変えてゆける その歌声で
答えのない未来 インフォデミックに惑わされず
奇跡は自分で起こすもの 君がそこにいる
ただそれだけで奇跡

あのライブの日、僕はこんな少し裏ぶれた気持ちで秋のブルックラインの街角を歩いている自分を想像していただろうか。あの時は前に前に向かう気持ちでいっぱいだった。これからもっと厳しい冬がやってくる。でも俯いている場合じゃないよな。少し道に迷いながらも、僕はようやく家路についた。

Day20230926火+5D0753-0948−1007

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