美#108「学習指導要領の現代国語編などを、読んだことは、一度もありませんが、Kや先生が唐突に死ぬ漱石の『こころ』を、どういう風に位置づけているんだろうと、疑問には感じます」

            「アートノート108」

 学年末試験の時、2年生の現代国語の監督をした。問題文を読むと、漱石の「こころ」から、出題されていた。今の高2から、新カリの世代で、現国では基本、文学は扱わないと、新聞では報道されていた。が、おそらく文学表現といったマイナーな科目があって、その科目で「こころ」を扱っているんだろうと想像した。
 私は、中学生の時、漱石の作品はだいたい読んだが、「こころ」が、一番、ツマラナイと思った。学校の教師になって「こころ」が、高2の夏休みの課題図書だったので、担任時代、二回読んだことがあるが、やっぱりツマラナイと感じた。私は、もう古稀だし、人生の場数もそれなりに踏んで、三角関係とかも、幾つか、まざまざと見たし、さすがに深読みできるかもとプチ期待して、「こころ」を、最近、読み返してみたが、やっぱり、「これのどこが面白いんだろう?」と呟いてしまった。Kが死ぬのも、先生が死ぬのも、ケータイ小説レベル、いやそれ以上に唐突だと感じた(もっとも私はケータイ小説を読んだことは、一度もないが)。
 漱石は、まだ死にたくはなかったし、死の覚悟もついてなかった。だから、「こころ」で、先生を死なせておけば、作者は自分は生き延びるんじゃないかと期待して、先生を自死させた、そういう推論しかできなかった。
「こころ」の題材は、まあ、ざっと10時間ぐらいかけて、授業で展開させるんだろうと推察できるが、これを教えるのは辛いだろうなと、国語の先生に、プチ同情してしまった。 出口汪先生は、御自分が執筆した参考書に、「『こころ』は漱石文学の最高峰」だと、お書きになっている。「こころ」は、漱石文学の最高峰。これが、受験に限らず、高校の現代国語文化の最大公約数だと、推察できる。今の共通テストも、私大の入試、国立の記述解答であっても、結局の所、最大公約数的な模範解答を書かないと、得点には結び付かない。本当の意味での文学には、受験の現代国語も、学校の国語の授業も、まったく、何ら関連はないと言っても、過言ではない。
 似たようなことは、アートの世界にだって、枚挙に暇ないほど、どっさりある。ゲルニカが、ピカソの最高傑作だと、美術の先生が教えたとしたら、やっぱり真の美術教育には、かすりもしてないと、思ってしまう。まあ、そもそもアートや文学は、学校で教えるものではないと断言できる。
 モネの最高傑作は、オランジュリーの「睡蓮」というのは、最高傑作が、「ゲルニカ」だと断定するよりは、多少、ましかもしれない。私は、オランジュリーの「睡蓮」は見たことがないので、この件に関して、本当は意見を保留しなければいけないのかもしれないが、大原と西洋美術館とブリジストンの「睡蓮」を見る限り、どんなに甘く見積もっても、「睡蓮」が最高傑作だとは考えにくい。
 作家やアーティストは、晩年になるに従って、レベルを上げて行って、最後にマスターピースを完成させるという成功物語の方が、みなさんに受け入れられる。最高傑作は、20代の作品で、30代以降は、どんどんレベルが下がっていると言われたら、30代以降の人たちは、立場がなくなる。全世代を納得させるためには、人間は最後の最後まで進化、発展をし続けるというお題目にしておかなければいけない。
 が、ちょっと冷静になって考えて貰えば、そんな筈はないと、すぐに誰だって気がつく。ビートルズが解散した後、メンバーは、各自、音楽活動を続けた。ビートルズ時代より良い曲は、ジョンレノンの「イマジン」と「ハッピークリスマス」の二曲だけじゃないかという気がする。ポールは、ソロ活動になってからも、ヒット曲は結構、あるが、どの曲も、ビートルズ時代のバラードを越えてない。ジョージハリソン、リンゴスターも同様。
 ローリングストーンズは、60'sのロンドンデッカ時代の曲がベスト。70's以降、面白い曲がないわけでもないが、60'sのブライアンジョーンズが、生きていた頃の曲は越えてない。こんなことは、ストーンズファンだったら、誰だって理解している。エリッククラプトンは、どう考えても、クリーム時代が最高。曲のコンセプトとしては「レイラ」のアルバムはいいのかもしれないが、クラプトンのギタープレーは、クリーム時代の方が冴えている(レイラは、デュアンオールマンのギターの方がいい)。
 モネは、1871年から1878年までアルジャントゥーユで暮らし1878年から4年間、ヴェトゥーユに居を構え、そして1883年以降、ジヴェルニーに移り、ここを終の住処として、画業を大成したってことになっている。ジヴェルニー時代の画業の集大成の過程に、積み藁があり、ルーアンの大聖堂、ヴェネツィアシリーズがあって、睡蓮で究極を極めたってことになっている。
「本当にそうなの?」と、声を大にして、世界の中心で叫ぶつもりもないが、声を小にして、「初期の頃にだって、傑作は確実にある」と、呟きたい気持ちにはなる。
 アート業界の方は、アートの価格に影響を与えるので、「王様は裸だ」みたいな、真実は、口が裂けても言わないと思うが、私は、別段、アート業界には何ら関わりはないし、モノ言わざるは腹ふくるる心地もするし、ちょっとくらいは、「王様は裸だ」と、真実を述べても、差し支えないような気がする。
 ピカソのゲルニカは、別にすごくはないし、モネの睡蓮も、ツマラナイと、正直な感想を述べたとしても、さして影響力もないnoteのメッセージだし、no problemだと思う。
 マネの「草上の食事」に啓発されて、モネも同じタイトルの絵を描いている。これの完成品は、もう残ってない(左側の一部分だけが、印象派美術館にある)。エルミタージュにある作品は、エスキース。が、エスキースであっても、モネの「草上の食事」がどういうものであったのかは、推定できる。
 マネと違って、裸婦を描いてない。裸婦を添えると、スキャンダルになって、マネの二番煎じになってしまう。それに、モネは、画学生時代のデッサンは別として、裸婦は一枚も描いてない。ルーブルに行って、偉大な過去のアーティストの裸婦を、模倣したりしたこともない。
 モネのこの絵は、背景の新緑の木々を先に描いている。新緑の木々が主役、人物の中心にカミーユさんを描いているが、人物は、新緑を引き立てるための添え物のように思える。バルビゾン派ならぬフォンテンブロー派の風景画といった趣向で描いている。新緑の表現は、本当にすばらしい。あとの時代の積み藁、大聖堂などよりは、個人的にははるかに、この絵の方が、すぐれていると、私は確信している。

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