美#98「ここ2、3日、第二帝政時代の絵を見ていますが、ベルエポックと言われている世紀末よりも、はるかに健全なんじゃないかと言う気がします」

           「アートノート98」

 サロンの選に落ちた「落選展覧会」は、ルイナポレオン(ナポレオン3世)の肝いりで開催された。新進気鋭のアーティストにとって、第二帝政時代は、別段、活動を阻害するような、抑圧は存在してなかった。ただ、フランスの伝統的なアカデミズムは、新進気鋭のつまり具体的な名称を挙げると、印象派のアートをまったく認めてなかった。世間の大多数の人が認めないものを、積極的に評価し、これをビジネス路線に乗せることは、容易なことではない。
 ポール・デュラン・リュエルは、1863年の落選展覧会で、マネの「草上の食事」が話題になる以前から、後に印象派と言われる画家たちのアートを高く評価し、1855年のパリ万国博覧会後に、パリのラ・ペ通りに画廊を開いた。終始一貫して、印象派を擁護し、印象派の絵の普及、発展のために、生涯、尽力をした。ポール・デュラン・リュエルという、19世紀のフランスが生んだ、偉大なキュレーターのお陰で、印象派のアートは日の目を見た。
 ポール・デュラン・リュエルは、印象派がまだ厳しく批判されていた、1866年にアメリカで印象派展を開催した。パリで、第一回印象派展が開催されたのは1874年。第一回印象派展の8年前に、アメリカで印象派の展覧会を開催して、大成功していた。展覧会を賞賛する好意的な記事が、ニューヨークを始め、大都市の新聞に、次々に掲載された。が、当時のフランス人は、アメリカなど所詮、出稼ぎが造った国だと、アメリカの文化をほとんど評価してなかった(実際、19世紀半ば過ぎ頃のアメリカには、音楽もアートも文学も、本物と言えるものは、まだほとんどなかったと言える)。
 アメリカからフェノロサがやって来て(東大の哲学の先生として招聘された)廃仏毀釈の嵐が吹き荒れている日本の美術界を救ったのも、19世紀の後半だった。後にフェノロサは、ボストン美術館の東洋部長になり、目利きのフェノロサのお陰で、ボストン美術館は、日本のすぐれたアートを、相当数、所有している。
 20世紀に入ってからのことは、まあさて置いたとしても、19世紀後半のアメリカは、creativeな創造活動はできてなかったとしても、超一流のものを見抜く鑑賞眼は、旧態依然としたフランスのアカデミーの人たちよりも、はるかにすぐれていたと想像できる。
 アメリカでの展覧会が成功した後、ポール・デュラン・リュエルは、ニューヨークにデュラン・リュエル画廊を開いた。
 ルノワールや、その他の印象派の画家たちの経済的な困難が緩和されたのは、ポール・デュラン・リュエルの努力のお陰だと言える。アメリカに、印象派のアートが沢山あるのは、ニューヨークのデュラン・リュエル画廊が、印象派の絵を扱って、販売したから。
 1910年に、ルノワールは、晩年のポール・デュラン・リュエルの肖像画を描いている。この頃、ルノワールは、リューマチに苦しめられて、もう腕も足も指も麻痺してしまっていたが、絵を描くことだけが生きがいなので、痛みを我慢して、ポール・デュラン・リュエルが、ソファーに腰をかけている上半身像を描いている。右手が、明らかに大きくて、身体の全体とのバランスが取れてないが、これは、ポール・デュラン・リュエルの絵画界への功績をフューチャリングするために、敢えて行っているデフォルメだと考えることもできる。壁とかソファー、ポール・デュラン・リュエルが着ている洋服などは、ざっくり描いているが、首から上は、薄くなった白髪、眉、口ひげなど丁寧に描いている。目の表情は、功成り名を挙げた人の肩の力を抜いた、アンニュイな雰囲気だと感じる。白髪の好々爺になっても、尚かつ生き馬の目を抜くようなspeedで、ビジネスチャンスを掴もうとするような炯眼などは、まったくもって不要だと判断できる。
 1882年、ルノールは、イタリアに行って来て、画風が変化し始めた頃、新進気鋭のポール・デュラン・リュエルの二人の息子の絵を描いている。小さな子供ではなく、デュラン・リュエル画廊を、将来は引き継ぐであろう、青年画商のシャルルとジョルジュ兄弟の絵。この頃は、もう、ルノワールは印象派からは離れつつあったが、大恩人の息子たちの絵は、印象派風の画法で描いている。ルノワールが描いた最後の印象派風の作品だと多分言える。洋服も背景の植物も印象派風だが、シャルルとジョルジュの二人の表情は、クールベ風の写実で描いている。顔の表情は写実、全体の雰囲気は印象派風、これが、1870年代のルノワールの画法だった。
 この二人は、新進気鋭の大画商の息子たちで、この息子たちも前途有為の青年たちの筈だが、ぎらぎらしたとこがまるでない。ギラギラと、鵜の目鷹の目で、マネーを追い求めるといった表情をしていると、画商として、充分に信用されないってことも、あるのかもしれない。二人とも、おっとりとした、悪女にすぐに騙されそうな、いいとこの坊ちゃんって感じがする。
 ルノワールは、ショケの肖像画も描いているが、これは、ショケにも、苦しい時に絵を買ってもらって、助けてもらったから、お世話になった男性の肖像は手がけているが、基本ルノワールが描くのは女性。女性を描くことが、ルノワールのミッションだった。
 スタンダールは「美は幸福を約束する」と、言った。スタンダールの言葉は、ルノワールの座右銘だった。ルノワール流に解釈すると、「美しい女性の絵は、幸福を約束する」だろう。
 女性の美を、極限まで突き詰めて表現しているとコートールドは判断して、ルノワールの「桟敷席」を110000ドルで購入した。この絵は、桟敷席の男女二人を描いているが、男性の目線が邪魔だと判断して、同席している男性は、オペラグラスで、他の桟敷の女性を見ている。女性の髪に飾ってある花も美しい、首元のじゃらじゃらのネックレスも女性を引き立てている、ドレスの上方に垣間見える胸のふくらみも絶妙だし、きりっと結んだ脣のルージュも刺激的。が、もっともfantasticで、mysteriousと感じるのは、ブルーの瞳。ブルーの瞳とブロンドの髪には、警戒しろと、「ニューシネマパラダイス」に登場する映写技師のアルフレードは、トト少年に言い聞かせていた。が、青年になったトトは、ブロンドの髪とブルーの瞳のエレンに恋をして、ひと夏を過ごすが、せつない終わり方だった。 が、まあブルーの瞳は、やっぱり「Can't take my eyes off you」で、コートールドは、ブルーの瞳の女性が描かれた「桟敷席」を購入したと想像できる。

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