自#308

          「たかやん自由ノート308」

中野翠さんがお書きになった「あのころ早稲田で」という単行本を読みました。私が早稲田に通ったのは、1975年4月から1979年の3月までですが、中野さんが早稲田の杜で、お過ごしになったのは、ちょうどその10年前です。「60年代というトンネルの出口は嵐だった」と云うキャッチフレーズが添えられています。このフレーズは、分かるようで、分からないような、誤解を生んでしまいそうなフレーズだなと、思ってしまいました。60年代は、エネルギーに溢れていて、まさに嵐でした。それは、四国の片田舎の中学生であった私にも判りました。60年代の嵐を抜けると、景色は一変したと、多分、言えます。
「トンネルを抜けると雪国だった。夜の底が白くなった」、そんな感じのロマンチックなものでは、もちろんないです。

 中野さんは学生時代は、左翼ガールだったそうです。週刊誌で中野さんの映画エッセイを読んでも、昔、左翼ガールとして、ぶいぶい言わせていたみたいな気配は、まったくありません。左翼になれない、何ちゃって左翼だったみたいな「総括」を中野さんはされています。が、まあ、4年間、当時の社研(社会科学研究会)の部員だったわけですから、外側から見て、形式的には左翼だったわけです。

 連合赤軍事件以後、左翼(正確に言うと新左翼)に対するイメージは、大きく変貌しました。ソ連崩壊のはるか以前に、左翼に対する共同幻想的なものは、日本では、ほぼほぼ消滅していたと言えます。それぐらい、連合赤軍事件は、強烈でした。私は当時、高2でしたが、共産主義革命で世の中を救うことは、論理的にも考えられないし、生理的にも受け入れられないと、はっきり理解しました。史的唯物論の入門書くらいは、読んでいましたが、マルクスの資本論やレーニンの著作を読むことは、この先、生涯に渡って、まず絶対にないと、高校時代に判断していました。大学卒業後、地方公務員になって、自治労の支部の青年部書記長になりましたが、それは、当局に対する抵抗勢力として、組合の存在、意義を認めていたからです。マルクスレーニン主義を、信奉していたわけではありません。

 中野さんは、伝説の早大闘争を経験しています。ピケを張って、バリケードの内側で、覆面、ヘルメット姿で角棒を持つと云った武闘派では無論なく、バリケードの外側にいて、シンパとして見守っていると云ったスタンスだったようです。「さながら、三国志の世界を彷彿させる状況だった」と云ったフレーズも書かれています。60年安保の全学連主流派の流れをくむ革マル(マルクス主義学生同盟革マル派)と、社会党傘下の社青同の分派である解放派と、日共系の民青の三国鼎立と云った風な意味です。中野さんは、団塊の世代の親世代に対する不信感が、根底にあったみたいなことを、お書きになっています。なぜ、あの無謀な太平洋戦争を起こしてしまったのか、戦後派として、それは聞いておきたいと云う気持ちは、当然、あったと思います。

 私が大学に入った頃は、革マルと民青は、完全に棲み分けていました。法学部の自治会のみ民青で、あとの学部の自治会は革マルが牛耳っていました。連合赤軍事件以後、一般学生は、学生運動には興味を抱かなくなりました。政治的には、無風だったと言えます。学園祭は革マルが仕切っていて、入場料として、パンフレットを400円で販売していました。早慶戦の時は、紙の角帽を買わされましたが、あれも、革マルの資金源だと言われていました。政治的に無風だっただけに、革マルの一党支配が、可能だったと、多分、言えます。

 立て看はそこらにいっぱいありました。政治的に無風なだけに、立て看を作ったりすることが、仕事だったりするわけです。アジ演説も、大隈銅像付近で、しょっちゅうやっていました。基本、身内の人間しか聞いてません。デモをやっているのを、見たことはありますが、普通の行進でした。腕を組んで小走りをしながらのデモとか、ジクザグデモとか、フランス式デモ(両腕を広げて道幅いっぱいに拡大した形で前進)などは、見たことがありません。

 ごくたまに、大隈銅像付近に人が蝟集している時がありました。青学に本拠を置いている原理が、早稲田に乗り込んで来て、革マルにcheckされて、つるし上げられていると云った論争が、たまにあって、その時は、一般学生が集まっていました。私には、仲のいい原理の教え子もいますし、原理に対するアレルギーはまったくありませんが(若い頃から宗教には寛容な性格でした)一般学生には、原理に対するアレルギーがありました。「原理は早稲田から出て行け」と、この点で、一般学生と革マル執行部は、一致していたんです。革マルがたまに、民青の幹部をつるし上げていることもあって、まあ、客観的に見て、民青の方が、当局寄りだったと思います。学費値上げ反対闘争で、他の学部はすべてストライキに入っているのに、民青が仕切っている法学部のみ、学年末試験を、ひっそりとやってたりしました。一般学生には、民青よりも、革マルの方が、まだましだと云う空気感は、あったと思います。

 学部の学生大会が、在学中に何回かありました。大学生の頃の私は、基本、社会党のシンパでしたが、ケースバイケースで、公明党でも、自民党でもOKみたいな中途半端な政治姿勢でした。まあ、これは今もたいして変わってません。政治は要するに妥協です。この真実は、二十歳くらいの頃には、はっきりと理解していました。学生大会には、毎回、参加しました。入り口で、学生証をcheckされます。学部の学生以外は、入場できません。ですから、他学部の学生大会のことは判りません。大学1年の頃、革マルの執行部に対して、明らかに一般学生だと思われる学生が、堂々と発言していました。理路整然としていました。当時、名門都立高校出身で「えっ、何でこんな頭いい奴が東大に落ちるんだ?」みたいな学生が、クラスに一人くらいはいたんですが、そのタイプの秀才が、大学に入ってヘーゲルなどを読み込んで、堂々と海千山千の革マルの執行部の幹部と、渡り合っているんです。最高にカッコよくて、coolだと思いました。一定レベルの勉強量は、絶対に必要だと、この一般学生のカッコいい発言を聞いて、反省もしたんですが、結局、4年間、勉強らしい勉強もせず、4年間が、またたく間に過ぎ去りました。高校時代と、時間の速さが違っていました。

 社会人になって、伊方の原発反対闘争のデモを経験しましたが、圧倒的な数の機動隊に取り囲まれて、身動きできないようなデモでした。伊方の原発反対闘争は、上(中執)から突然、中止命令が下りて来て、あっけなく終わりました。敗北だったのか、徒労だったのか、踊らされていたピエロだったのか、よく判りません。ただ、clever & wiseじゃないと、自分自身のスタンスも保てないし、納得できるいい仕事もできないと、20代の半ばくらいに思い知ったことは、貴重な体験でした。

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