自651「日本の古典は難しくはないです。ややこしいだけです。が、何回も読んでいれば、そのややこしさにも、慣れます」

      「たかやん自由ノート651」(日本の古典)

 日本の絵を、at randomにいろいろ見ています。体系的にとか、歴史の流れに沿ってとかではなく、興味関心の赴くままに、自由、気ままに絵をenjoyしています。日本の絵を見て、解らないと感じることは、何ひとつありません。たとえそれが、歴史画であっても(もっとも歴史画は少ないです。神話系の絵も、西洋絵画のギリシア神話系のそれと比較すると、皆無に近いくらいrareです)タイトルを見れば、解ります。浮世絵などは、ある程度、江戸庶民の風俗、習慣などを知っておいた方が、より細部まで理解できますが、知識ゼロでも、絵の面白さは伝わって来ます。
 さして苦労せずに見ることができる日本の絵に、先に親しんでしまったら、ギリシア神話や旧新約聖書を、ある程度、読み込んでおかないと、深く理解できない西洋の絵を見るのは、手間がかかって、しんどいかもしれません。
 私は、歳を取ったら、日本の古典を読むことに決めていました。30代、40代の働き盛りの頃ではありません。中3に入って(つまりヤンキーをリタイアして)本格的に文学に親しみ始めた頃、もし長生きできたら、老後は古典だと決意していました。
 中高時代は、翻訳小説をせっせと読みました。ヘッセもゲーテも、バルザックもゾラも、シェークスピアもドストエフスキーも、面白かったです。気がついたら、朝までずっと読書に没頭していたといった夜も、しょっちゅうありました。高校時代に、今ひとつ、面白さが解らなかったのは、スタンダールです。面白いんだろうけど、うーん、何か今ひとつしっくり来ないって感じでした。フランス革命の激動が、ある程度、理解できてないと、物語の雰囲気に入り切れないのかもしれませんし、まあ、多分、そもそものことを言うと、スタンダールの「精緻な心理解剖にすぐれた、simpleで簡潔な」文体は、フランス語のオリジナルのテキストで読まないと、つかめないんだろうと推定できます。これは、翻訳文学の限界ってやつです。
 外国の翻訳小説を読みながら、時々、日本の近代文学も、それなりに読んでいました。日本の文学は、読みやすく、解りやすく、自然です。近代文学ですから、西欧の哲学なり倫理なり宗教なりも、ある程度、織り込まれている筈ですが、そういう、ある種のバタ臭さは、まったく感じませんでした。日本の文学なんて、いつでも読める、外国の文学に親しんでおくのは今でしょう、というノリで、高校時代の4年間(高1で高校を中退したので、4年間です。16歳の半年間は、バーテン見習いをやっていたので、正確に言うと3年半です)を過ごしました。旧新約聖書などは、腹をくくって、努力して読みました。旧新約聖書を、努力せず、saku saku自然に読める日本人は、いないだろうと私は想像しています。
 自分自身への52、3年前の公約通り、老後の今、日本の古典を読んでいます。ここ3年間くらいは、毎日、源氏物語を音読しています。源氏物語は、確かにある意味、難しいです。が、それはボードレールやヴァレリーやマラルメの詩の難しさ、あるいはプルーストやジョイスの難しとは、まったく違います。日本の古典は、正確に正しく言うと、別に難しくはないです。ややこしいんです。
 源氏物語のオリジナルテキストには、読点も句点もありません。ただひたすら、長い文章が、ひとつの帳が終了するまで、エンドレスに続いて行きます。中学2年の半ばあたりで、徹底的に叩き込まれた、英文法のいわゆる五文型的なものは、源氏物語には存在してません。英語のひとつのセンテンスは、すべて五文型のどれかで表現されています。ひとつのセンテンスに主語は一つ、動詞も原則一つです(動詞が並列でつながっていたとしても、それは一つと見なせます)。主節以外の従属節があれば、主語も動詞も、いくつか出て来ますが、メインの主語と動詞は、主節の一つずつです。
 日本の古典を、多少なりとも勉強すれば、英語がどれだけsimpleで、解り易く表現された文章、文体であるのかということは、手に取るようにはっきりと理解できます。こんなに簡単だったんだと、ある程度、なめてかかって、「こんなの100%、解るでしょう」と、上から目線で、英語に取り組んだ方が、英語はマスターし易いだろうと想像しています。私自身、英語は、簡単な言語だと思っています。ただ、語彙力がないので(受験生レベルの3000語くらいの語彙力しかありません)たとえ、それがジャーナリスティックなメディアであっても(新聞なんて本来、最低限の基礎学力があれば、読める筈です)ニューヨークタイムズやワシントンポストを、saku saku読むことは、とてもできません。
 40代の半ばくらいだったと思いますが、自分にどれだけ英語力があるのか、あるいはないのか、試してみようと考えて、休日の朝から、ニューズウィークに取り組みました。夜に入って、ほぼ12時間くらい経過しているのに、まだ最後まで読み切れてませんでした。それに、私が使っている研究社の英和大辞典に掲載されてないモダンな単語も、沢山あります。ニューズウィークなんて、薄い、タイムズよりはるかに易しい週刊誌です。その読みやすい週刊誌ですら、超スローペースになって、読み切れなかったんです。語彙力の絶対量が、全然、足りないと痛感しました。ニューズウィークでさえ、あれだけ苦労して一日では、読み切れなかったんです。シェークスピアのオリジナルテキストを、読破したいといった野望は、爪の先ほども持ち合わせていません(が、まあシェークスピアは、文学ですから、ノリで結構、つかめるってとこはあると思いますが)。
 源氏物語は、だらだらと続くひとつのセンテンスの中で、次々に主語がchangeして行きます。その主語は、発言の主体だったり、心の中で思っている主体だったりします。時々、作者も主語として登場します。どの部分が誰の発言なのか、誰が思っているのか、そういったことを確定するのが、とても難しいんです。時に、その主語が、光源氏であっても、相方の彼女であっても、どっちでも構わないみたいな箇所もあります。
 敬語の使い方で解るだろうと、思われるかもしれませんが、光源氏に最高敬語が使われることは、まったくありません。そもそも、光源氏は、東宮でも、天皇でも、上皇でも、宮ですらありません。民間に下った源氏です。相方は、宮だったり、受領の娘だったり、さまざまですが、きっちり敬語が使い分けられているわけではありません。敬語では、判定できず、結局、流れと雰囲気で、読み解いて行くしかないんです。「答えのない問題、課題」みたいなフレーズが、流行っていますが、源氏物語こそ、模範解答の存在してないテキストです。主語が誰であるのかは、読む本人が決定して、それが間違いであっても、何となく筋が通ってしまったりもします。
 岩波書店の古典文学大系の源氏物語のテキストは、本文の右横に、小さく、主語を書いてあるんですが、正直、あれは不要です。出版社(というより校注者)に主語を決めてもらう必要は、全然、ありません。主語が誰であるのかを決めることも含めて、源氏物語の読解です。源氏物語は、別に難しいわけではなく、ややこしいだけで、別に辛くも苦しくもなく、解らなくても、自然な感じです。四季折々の自然は、ある意味、不思議かもしれませんが、不思議などと懐疑的にならず、ただのその美しさ眺めて、自然を楽しめばいいんです。古典との付き合いも、まあそれと同じです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?