美#100「ボードレールの詩を読み始めました。もちろん、まだ翻訳ですが『灯台』のような絵画系の詩は、原文にもchallengeしてみたいです」

           「アートノート100」

 図書館でマネの画集を借りて来た。このところ、二週間ごとに、借りて来ている美術出版社が翻訳をした、アメリカで編集されている世界の巨匠シリーズの一冊。このシリーズの良い所は、制作年代順に、絵が掲載されていること。日本で編集された美術集は、取り敢えず、著名な作品を次々に出して来て、後半は、さして知られてないマイナーな作品を、付録のように付け足してたりしてる。だから、アーティストの成長に合わせて、絵を眺めるということができない。
 歳を取れば、アーティストは、人間として成長して行くと、だいたいにおいて言えるが、作品のレベルは、ある時期を頂点として、そこからは下って行ったりする。これは、自分自身も年老いてしまったから、下がってしまうのも、已む得ないなと理解できる。下がっているというのは、あくまでも見ている私の主観による判断で、下がってなくて、上がっていると判断する人だっていると想像できる。出版社が勝手に選ぶ「マスターピース」(傑作)というのも、正直、しっくり来ないケースが多いし、制作順に作品を並べてくれた方が、公平じゃないかという気はやっぱりする。
 マネは、オルレアン朝時代の1832年に、パリで生まれている。父親は、法務省の高官。母親は、駐スウェーデン大使の娘。名門の子弟だと言える。
 13歳の時、コレージュ・ロランのデッサン教室に通い始め、ここで生涯の友人であった、アントナン・プルーストに出会う。アントナン・プルーストは、後に美術担当の大臣となり、マネが、レジョン・ドヌール勲章を、拝受できるように尽力をする。20世紀の画家は、勲章などにはさして重きを置かなくなったが、19世紀のマネの時代にはそれなりの重みと価値を持っていた。
 マネが16歳になった時、両親は法律を学ぶことをマネに強く推奨したが、絵を描きたいマネは、聞き入れなかった。そこで、妥協案として、海軍兵学校を受験することにした。が、マネは試験に落ちてしまった。で、普通の練習船のパイロット見習いとして船に乗り、リオデジャネイロ港に向かった。この航海の間、及びリオデジャネイロ滞在中に、マネは、おびただしい数のデッサンを描いて、帰国した。
 両親は、渋々、マネが絵を描くことを認め、マネは、クーチュールの画塾に通うようになった。が、旧態依然とした、クーチュールの教えには飽き足らず、せっとルーブルに通って古典作品を模写するようになった。
 マネの家で、音楽の家庭教師をしていた、オランダ女性のシュザンヌ・レーンホフと、マネとの間に、子供ができてしまった。マネは二十歳で、シュザンヌは二歳上の二十二歳。生まれたの男の子。この二人は、11年後、厳格な父親が亡くなったあと、ようやく正式に結婚をする。
 マネは、ルーブルで、ベラスケスの作品を研究し、ドラクロワの「ダンテの小舟:地獄のダンテとヴェルギリウス」やティントレットやティッティアーノの作品などを模写する。
 1863年、サロンに「草上の昼食」を提出するが、落選する。ナポレオン三世が、落選展を開催し、マネの「草上の昼食」は、そこで激しく非難を浴びる。この作品は、ラファエロの下絵を元にマルカントニオが制作した、パリスの審判の一部の群像をベースにして制されされている。パリスの審判の、ヴィーナス、ヘラ、ミネルバの三神をはじめ、画面に登場する男女はみんな裸体だが、肉体美を感じさせるだけ。マルカントニオの版画に則って、描いている「草上の昼食」も、別段、何の問題もないように表現されている。「草上の昼食」の裸体の婦人は、足の指、足の裏、脛や太股などは、青年のそれのように逞しく、どこから見ても男に見える。胸とお腹のみ、ふっくらしていて、そこは女性なのかもしれないが、エロくはない。この絵のどこが悪いのか、さっぱり判らない。
 2年後に話題になった「オランピア」は、多少、エロいのかもしれないが、「オランピア」は、ティッツィアーノの「ウルビーノのビーナス」を換骨奪胎した本歌取りをしたような作品。この絵は、ウフィツィにある。目の表情といい、首の傾げ方といい、さりげなく恥部に左手を置いているが、その手指の円みといい、姿態全体のゆたかなボリュームと言い、どう考えても、テイッツイアーノの絵の方が、欲情を刺激する。
 1866年、マネは「笛吹き」を制作し、サロンに出品するが、落選する。笛吹きは、近衛軍の鼓笛兵の少年が、何もない消えた背景の中に立っている。影らしきものはなく、青・白・赤などの微妙に肉づけされた広い色面による構成は、モニュメンタルな大きさすら感じさせる。マネは、対象をこのように「空気に包む」というやり方を、スペインでベラスケスから学んで来た。「笛吹き」は、文句のつけようのない佳作だと思うが、「扉に貼りつけられたダイヤのジャック」だと批判された。エミールゾラは、マネを弁護したが、マネを弁護したことによって、ゾラはその後、サロン評を書くことができなくなった。
 1883年4月、左足が壊疽状態だったので、左足を切断したが、そのまもなく、マネは逝去した。享年51歳。マネが逝去すると、翌日、突然、掌を返したように、礼讃の声が湧き上がった。パリの大新聞は、偉大な画家の逝去に対し、素直に頭を下げ、哀悼の意を捧げた。 翌年、エコール・デ・ボザールで、マネ大追悼展覧会が開催された。カタログの序文を書いたのは、終始、マネを擁護したゾラ。
「フォリー・ベルジェールのバー」は、死の前年に制作した、マネの最高傑作と言っても、過言ではない作品かもしれない。5年前にコートールド展で、この絵を子細に眺めた。鏡の位置は、よく判らない。群集も、大雑把にざっくり描いてある。ホステスのレースの襟や袖口は、巧みに描いてあった。胸元の花や、タンブラーに挿した藤色と桃色のバラの花も丁寧に描かれいる。洋酒の瓶や、オレンジを盛ったガラス器、白大理石のカウンターなどの存在感も強烈。シャンデリアの光は、過不足なく全体に光りを撒いている。バーというものの、あるべき理想のひとつを、表現していると納得できる。

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