美109「モネが奥さんのカミーユや息子のジャンを描いた絵は、モネの家族への愛情が、はっきり読み取れます。セザンヌの絵は、家族への愛情は読み取れません。が、私はセザンヌの絵の方が、好きです」

          「アートノート109」

 腹心の教え子のM子が描いた絵を、ごくたまに見せてもらったりする。私は、M子が高校生だった頃から、彼女の絵が好きだった。担任だった頃は、彼女に紙芝居を作ってもらった(多分、その紙芝居を私も声を出して読んだ筈だが記憶にない)。卒業する時は、卒業文集の表紙の絵を描いてもらった。大学に進学し、その後、社会人になっても、時々、勤めている学校に絵を見せに来てくれた。彼女が結婚をする時、今後はもう、気軽に彼女に絵を描いてくれとは頼めないので、部活のオーディションの様子を、各バンドごとに、一枚ずつ、描いてもらった。人物は、美化されていたが、彼女らしい、さわやかな美化の仕方だった。
 M子は、現在、二人の息子の母。今、主に子供の絵を描いている。彼女が自分の子供を描いた絵を見ると、母親の子供に対する愛情が、directに伝わって来る。将来、この子供が大人になった時、間違いなく、親孝行をするだろうということも確信できる。
 学校の教師の影響力など、さほどたいしたものでもないが(だいたいにおいて、吹けばすぐに飛び散ってしまうような、薄っすーい影響力だと言える)腹心の教え子だけに、多少は、私の存在も重みを持っていると、自負している。どうしようもないレベルの親不孝者で、人間としてもどこか欠陥があると言わざるを得ない私が、教師になったわけだが、自分の子供を愛していて、きちんと子育てをし、その子供の絵も描いている教え子が存在することは、まあ、やっぱり多少は私を勇気づけてくれる。私は、他人には影響されない人間だが、これくらいの影響力なら、素直に受容できる。
 親友のHは、私が30歳で教職に就く時、「オレが、15歳の春、オマエを必要としたように、オマエを必要としている16歳、17歳は、確実にいる」と、私の背中を押してくれた。親不孝者で、人間としてもある意味、厄介な私だが、腹心のM子が、私を必要としてくれたことは間違いないと確信している。
 モネの絵だって、本当の所、カミーユさんとジャンの母子の絵が、一番、私の心には刺さる。睡蓮の絵が、刺さるはずがない。私はモネが描いた睡蓮より美しいリアルの景色を沢山見ている。睡蓮は、モネの作品群の中では、駄作の類だとさえ、私は思っている。
 15歳の夏、大原美術館でモネを見た時、黄色く幻のように咲いている睡蓮には、一ミリも感動しなかった。その隣の積み藁の陰に、仲良く座っている母子の姿を見た時、自分の人生には、こういうことは一度もなかったなと、しみじみ思ってしまった。母子の仲睦まじさは、自分には一生縁のないものだと頭の中では理解していたが、母親に親孝行をしている親友のHを見ていると、正直、やっぱり羨ましかった。
 カミーユとジャンの母子が、ディナーのテープルに座っている絵もある。タイトルは「午餐」だが、ジャンはまだ二歳くらいの幼児だし、そうがっつり食べるわけでもない。dinerではなく、petit dejeunerくらいの軽い食事を摂ろうとしている。
 白いテーブルクロスに、大きなバゲットを転がしている。カゴに入り切らないので、転がしてあると想像できる。このバゲットは、硬くてまだ幼児のジャンは口にできない(だから離れたとこに置いてある)。お母さんのカミーユは、ジャンのすぐ傍にいて、何が食べたいのか、息子に訊ねているような気配がする。息子は、右手にスプーンを持っている。スープくらいは飲むのかもしれない。
 二人の反対側に、父親のモネの席がある。テーブルの上には、フィガロ紙が畳んで置いてある。モネは席についてない。モネは、テーブルから少し離れた地点で、イーゼルを立てて、この絵を制作している。モネが座ると、カミーユとジャンのかなり部分が見えなくなって、構図的にNGになってしまう。四人掛けの椅子が、一個、余っていて、その椅子にジャンの帽子をかけ、周辺には、ジャンの玩具が転がっている。
 この頃、モネは、親友のバジルに手紙を書いている。
「海岸で過ごして、夕方帰宅すると、ちっぽけな家と、快い暖房と、数こそ少ないが、楽しそうな家族が待っている。君の名付け子(つまりバジルがジャンのゴッドファーザー)一目、見てもらいたいものだ。最近は本当に可愛いらしい。このちびさんの成長を見ているのは、実に楽しい。確かにこの子がいるお陰で、非常に幸福だ」と。
「ひなげし」は、母と子が、ひなげしの丘の上から下って来るsceneを描いている。丘の上が、過去の場面で、丘の下が、今現在の立ち位置。ひなげしの赤は、寒色系の青い草から、ふわっと浮き上がって見える。印象派手的な画法だと言えるが、人物はきちんと描き切っている。こういう印象派的な作品は、充分に容認できる。人物を描かず、積み藁のみ、大聖堂に当たる光の移ろいのみ、池の睡蓮のみの表現になると、ついて行けなくなる。
 子供時代、不幸せな人間は、強くなる。まあ、少なくとも私の子供の頃は、そうだった。不幸が間違いなく、子供の人間性を練り上げてくれる。今は、子供の頃、不幸だと、逆に大人になると、心が折れるのかもしれない。
「若い頃、苦労しておけば、歳を取って、幸せになる、いいことがある」といった根拠のない道徳を、子供の頃や若い頃、年配者たちから聞かされた。これをざっくり言うと「若い頃、不幸だと、歳を取ると幸せになる」という教訓になる。
 が、私は、子供の頃、若い頃こそ、幸せであるべきだと思う。歳を取って不幸だとしても、年寄りはそれを耐え忍ぶ知恵があるし、そんなことで、おたおたしては、年寄りなんだし、みっともないと思う。だから、モネの母子の幸せそうな絵を見ると、心が素直に癒やされる。
 印象派美術館に、「日傘をさす婦人」という著名な絵がある。取って付けたような右手はともかくとして、傘の陰の緑やショールの青が風になびく様子は、夏の雰囲気を巧みに表現している。が、私は、「丘の上、モネ婦人と長男ジャン」の母子を描いた作品の方が、はるかにfavorite。母子は、二人がそこにいると言うだけで、存在意義がある。人間一人だけのスターンドアローンだと、つねに存在意義が揺らぐ。母子とか家族といった絆が、人間を孤独から救い出すという仕組みは、太古の昔から、変わってないと思う。    

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