自#336「私は紙ベースで文章を読む人間ですが、本や雑誌や新聞が、データーベース化されたら、紙ベースに勝ち目はないだろうなと、冷静に判断しています」

         「たかやん自由ノート336」

 ジャーナリストの大宅映子さんのインタビュー記事を、週刊文春で読みました。映子さんのお父さんは、昭和の偉大なジャーナリストの大宅壮一です。私は、大宅壮一の右腕と言われていた草柳大蔵の本を結構、読みました。草柳大蔵の本を通して、大宅壮一や戦後のジャーナリズムについての知識を得ました。草柳大蔵が創刊の頃から参画していた週刊新潮は、高校生くらいの頃から、教員になるまで、15、6年くらいは読んでいました。フルタイムの教職時代が終わって、また週刊新潮や週刊文春を読み始めました。野次馬ジャーナリズム的なものが、嫌いではないんです。

 映子さんは、お父さんの跡を継いで、昭和から平成にかけて、評論家、ジャーナリストとして、活躍された方です。映子さんが、お生まれになったのは、1941年、太平洋戦争が始まった年です。戦争中、お父さんは、陸軍の宣伝文化部に所属し、中国や東南アジアで、宣伝用の映画を撮っていたんですが、1943年にジャワから帰国して、生活スタイルを一変します。戦争には、確実に負けると判断し、自給自足の生活を目指します。ライカのカメラを売って、世田谷の八幡山に800坪の土地を購入して、一家総出で雑木林や竹林を開墾して、農業を始めます。カメラ一台で、800坪の土地が購入できるのは驚異的ですが、それだけライカのカメラのような、当時の高級なメカニズムは、高い価値を持っていたわけです。近所のお百姓さんにアドバイスしてもらって、米、麦、野菜、鶏、豚、ヤギの乳、ハチミツまで、家族で完全に自給自足できるようになります。戦後の食糧難にも、困窮することなく、映子さんは、お育ちになったわけです。お父さんは、そのまま農業を続けて、余生を送ろうとしていたようです。当時、大宅壮一は、45歳。人生50年と言われていた時代です。晴耕雨読の隠居生活に入りたいと言う気持ちは、判らなくもないです。が、大宅壮一の妻の昌さんが「私は、農家の嫁に来た覚えはございません。子どもたちを、これから世に送り出さなければならぬというのに、ここで埋もれてるわけには参りません。あなたには、また文化的なお仕事をしていただかなければなりません」と諫め、説得したそうです。映子さんは、お母さんのことを「明治の精神が着物を着たような、筋の通った女性だった」と語っています。昌さんが説得しなければ、戦後のマスコミ界で、帝王と言われ「一億総白痴化」「駅弁大学」「太陽族」「口コミ」「恐妻」「男の顔は履歴書である」等々、今でも人口に膾炙している言葉を生み出した偉大なジャーナリストは存在しなかったわけで、昌さんを伴侶に選んだことが、大宅壮一の人生最大、最良の決断だったと云う風にも思えます。ついつい、守りに入ってしまう男たちを、賢く動かせるのは、やっぱり女性だと云う気はします。お金がある人にとっては、銀座のクラブに通ったりすることも、多分、意義のあることです(ルーツ水商売の私は、水商売の価値は、充分に認めています)

 父親が著名なジャーナリストですから、家には新聞、週刊誌、月刊誌などが、大量にあります。自由な教育方針で、基本、何を読んでも構わなかったそうですが、父親が「夫婦生活」だけは読んでいけないと禁じたそうです。「不感症と不能症の治し方」と云った、寝た子を起こしまくるような、刺激的な雑誌で、当然のことながら、映子さんは、隠れて読みまくります。お父さんだって、禁止した絶対に読むと、判っていた筈です。これもまあ、変種の教育法のひとつだったのかもしれません。

 小5の時、お姉さんから「テネシーワルツ」を聞かされて、カントリー&ウエスタンにはまったそうです。「テネシーワルツ」からカントリー&ウエスタンにはまるのは、多分、お約束なんだろうと思います。私は、はまりませんでした。カントリー&ウエスタンは、つまりアメリカ人の浪花節です。白人の女々しい歌より、黒人のR&Bの方が、はるかに刺激的でfantasticだと思いました。

 映子さんは、中学校で英語を習い始めて、FENを聞いたそうです。父親が大物ジャーナリストなので、自宅にはオープンリールのテープレコーダーとかがあるわけです。たとえば、プレスリーが流れると、オープンリールのテープレコーダーに録音し、歌詞を書き起こして、発音がRかLか、辞書で調べたりしたそうです。中学生くらいの頃に、こういう努力をしておけば、英語は、間違いなくlisten toできるようになります。

 高校は、都立駒場高校に進みます。父親の影響で、高校ではカメラ部に入ります。引き伸ばし機が欲しいと父親に言ったら、荻窪の中古カメラ屋で一緒に探してくれて、トイレを改造して、暗室も作ってくれたそうです。子供の頃から、ジャーナリストになるための英才教育を施されていたと云う風にも思えます。アメリカに憧れて、アメリカ留学を希望したのに、父親に反対されたそうです。反対した理由は解ります。アメリカに行ったら、愛娘はもう帰って来ないと懸念したんです。それは、やっぱり当時の父親には、想定外の文化だったわけです。

 映子さんは、アメリカに行けなかったので、国内留学と云ったノリで、当時、創設されたばかりだったICUに進学します。映子さんが、ICUに入学したのは1959年。60年安保は、映子さんが、大学2年生の時です。明大前の雀荘で、麻雀を打っていたノンポリの私の先輩さえ、雀荘の前に、小型のマイクロバスがやって来て、国会のデモに動員されています。私は、当時の東京の学生たちは、ネコも杓子も、60年安保で、わさわさしていたと勝手に思っていましたが、三鷹の広大なキャンパスで、当時、桃源郷のようなキャンパスライフを過ごしていたICUの学生にとって、60年安保は、多分、無縁だったと推測できます。偉大なジャーナリストの娘は、60年安保については、何も語ってません。

 ICUを卒業して、PR会社に就職します。そこで出会った先輩と結婚。「アメリカを見てからでないと子供は産まない」と映子さんは主張し、調べてみると、西海岸まで往復する飛行機の値段で、世界一周ができると分かったそうです。そこで、夫婦で、45日間かけて世界一周旅行をします。

 その後、二人の子供を産み、子育てが一段落してから、ジャーナリストとして活躍し、現在は、父親が残した大宅壮一文庫の理事長として、紙ベースの新聞、雑誌の蔵書を守っています。が、インターネットの普及で、経営は厳しいそうです。私は、紙ベースで文字を読む人間なので、大宅壮一文庫を守り続けて欲しいと願っていますが、新聞や雑誌や書籍が、データーベース化されている昨今、紙ベースに勝ち目はないだろうと、冷静に判断しています。

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