自#338「20代の後半、土木事務所で4年間、仕事をしました。自然現象は、結局、制御できないものだと知りました」

          「たかやん自由ノート338」

 最初に赴任した学校でお世話になったO先生が、昨年の秋、句集を送って下さいました。O先生が主催されている俳句の会の句をまとめた句集です。ある会員の句の中に、小鹿田焼という言葉がありました。小鹿田焼は、どこかの陶器だろうと推定できますが、寡聞にしてこの名称を知りませんし、読み方も解りません。下句でしたから五文字です。「おじかだやき」と読むと字余りになってしまいます。O先生に手紙を出して「What's 小鹿田焼?」と、単刀直入に質問してみました。グーグールで検索すれば、即座に判明すると思いますが、そういう便利さとは距離を置いた生活をしています。O先生から返事があって、小鹿田焼は、おんたやき読み、大分県日田市の陶器だと教えていただき、これを読めば、詳しく解ると、参考図書の「リーチ先生」(原田マハ著)が、別便で送られて来ました。

 大分県日田市は、若い頃、四回車で通過しています。有名な焼き物でしたら、どこかの窯元に立ち寄っている筈です。知る人ぞ知る、九州のマイナーな焼き物だろうと想像しました。

 私は、人生でたった一回だけ、女の子と、車の旅をしたことがあります。女の子、girlです(正確にはgirls)。adultな女性ではありません。27歳の春、お茶の先生の姪御さんの小4のT子ちゃんと、小2のN子ちゃんと三人で、一週間くらい、北九州の旅をしました。この二人の姉妹の母親の知り合いが長崎にいて、取り敢えず、そこに遊びに行くと云った風な名目の旅でした。日田は通過しました。小2と小4のgirlたちは、いくらお茶の先生の姪御さんでも、焼き物に興味を示す筈はないです。もしかしたら、看板とか出てたのかもしれませんが、きょろきょろしていると「よそ見とかしないでよ。あぶないじゃない」と、後部座席の二人から、突っ込まれるかもしれないので(結構、辛辣で、手厳しく、なおかつチャーミングでcuteなgirlたちでした)見落としたのかもしれません。 句集の最後のページに小鹿田焼の茶碗と珈琲カップの写真が掲載されていました。句集ですから、各人の句が載せてあり、巻頭句の前説の文章も掲載されています。参考の写真も印刷されていますが、文字とビジュアルの両方が掲載されていたら、私は、基本、文字しか読みません。ビジュアルの資料は、おざなりにぱっと目を通すくらいです。小鹿田焼きは、九州のどっかの田舎町が、町おこしのために作っている、素朴な生活雑貨と云った雰囲気の焼き物だと、あとから写真を見て、勝手に想像しました。

 別便で送って下さった原田マハさんの「リーチ先生」の方は、半年くらい放置していましたが、昨日、朝から雨だったので、一気に解題も含めて597ページ、最後まで読みました。晴耕雨読という四文字言葉があります。三国志の劉備玄徳でさえ、どっかのちっちゃな城(城と云うのは城郭都市のことです)で、晴耕雨読の生活を一時期してました(もっとも、これは曹操の目を欺くためでしたが)。晴れたら外で仕事、雨だったら仕事ができないので、室内で読書と云う意味の言葉ですが、雨の日の方が、読書には集中できるんです。晴れていると、どうしても気が散ってしまうってとこがあります。読書は、昼間よりは夜の方が、集中できます。が、私は、夜はもうすぐに寝るので、読書は昼間です。朝から終日、雨が降っている日は、絶好の読書日です。

 このあと、「送って下さった『リーチ先生』を読みました」と、6ヶ月遅れの礼状を、O先生に出します。もう半年も経過しています。遅すぎます。が、たとえどんなに遅くなっても、礼状は出すべきです。お世話になったら礼状を出す、これが私が生涯守って来たルーティーンです。礼状をたくさん出すのは、大変ですから、そんなに多くの人には、お世話にならないように、日頃から心がけています。合同ライブや、イベントに招待してもらった時は、その後、基本、礼状を出しました。ただ、お世話にはならなかった、こっちが逆にお世話をしたって時も、たまにあります。その時は、出しません。つまり私が出すのは、実質的な礼状のみです。形式的な礼状は出しません。O先生に出すのは、もちろん実質的な礼状です。が、半年遅れ。どうしてなんて、理由は聞かれたりしませんが、理由は、朝から雨が降っているjustの読書日が、ずっとなかったからです。

 耳順という言葉があります。これは、耳で聞いて、本当か嘘か、聞き分けられるようになると云う意味だと、小林秀雄がエッセーに書いていました。まあ、確かにそうだなと云う気はします。人の話を聞いて、どこが本当で、どこが嘘か判るようになる、が、まあこれは、あまりハッピーなことではないと思います。目順という言葉はありませんが、小説を読んでいて、どこがリアルで、どこが虚構なのか、歳を取ると、やっぱりある程度、判るようになります。小説を読む人間にとって、これはそう面白いことではないです。虚実ないまぜで、区別がつかないから、夢中になって読んで行けるんです。人生の経験というものは、小説を読むことも含めて、若い頃にしておくことが、やっぱり望ましいです。歳を取ると、手品の種や仕掛けが見えるみたいなとこがあって、それは、やっぱりそう面白いことではないです。

 バーナードリーチが我孫子に築いた工房と窯が焼け落ちるsceneが「リーチ先生」の中に描かれています。あっ、これはあるなと思いました。私は、かつて火事に遭って、家財道具をすべて失っています。そう驚きもせず、罹災のリアルを受け止めました。若い頃に、先輩から「生きている内に、一度は火事や地震に遭遇する。それは日本人の宿命だ」と、あらかじめレクチャーされていました。残念ながら、自分の部屋が焼けたリアルのsceneは見てませんが、中3の時、近所の端山で山火事があって、それが一周間くらい続いて、毎晩、見に行ってたことがあります。消防車が必死に消化活動をしていますが、消せません。結局、燃える雑木がすべてなくなってから、火事は終了しました。火とか水とか、自然現象は、人間の力では制御できません。制御しているつもりになっているだけです。ですから、原発も制御できません。もし、政党が原発の是非を争点にして争うのであれば、私は、原発を否とする政党に投票します。

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