美#99「歳を取ったら、日本の古典を読んで、仏教美術に没頭するだろうと、勝手に想定していたんですが、今は、19世紀のフランス絵画を見て、フランス語のおさらいをし、ボードレールなどを、少しずつ、読んでみようとしています。老後になっても、人生がどうなるか全然、見えてなくて、まあ、そこがちょっと楽しかったりもします」

             「アートノート99」

 昨日、吉祥寺の駅ビルの階段を上がって、中央線の改札口に向かっている時、「Can't take my eyes off you」の曲が聞こえて来た。高校の吹奏楽部が、新入生歓迎ライブで演奏しそうな曲だから、季節でいうと、春の今ぐらいの時期のBGMだと言えるのかもしれない。日本語のタイトルは「君の瞳に恋してる」。上手い訳だと感心する。今から70年くらい前の1950'sの翻訳者たちの方が、今よりずっと英語力は、すぐれていたんじゃないかとすら思ってしまう。もっとも、今の時代は、AIが自動翻訳してくれるだろうから、「英語力」という言葉さえ、もう死語になりつつあると、想像できる。
 が、「Can't take my eyes off you」と「君の瞳に恋してる」は、意味内容はかなり違う。AI翻訳だと、もっと正確な日本語を紡ぎ出すと推定できる。
「Can't take my eyes off you」は、自分の目を見つめているあなたの目から、私の目は離れることができないという意味。男女の二人が、見つめ合っている。ずっと見つめ続けていると、相手の瞳の中に自分の心が吸い込まれて行ってしまう、そんな想像すらしたくなってしまう。
 相手の目を見て話しなさいと、小学校の頃から、boy & girlたちは、嫌というほど、教えられて来た筈。相手の目を見て話しなさいは、相手の目を見ているという「てい」で、実際は見つめたりしないで、少し目線を逸らして、話しなさいという意味だと理解できる。 私は、今週の金曜日から、平成6年度の授業がstartする。一番前の席の女の子と、私がぴたっと目線を合わせて、ずっと喋り続けたら、彼女は間違いなく、いたたまれない気持ちになって、目線を下げる。で、休み時間になって、「あの公共の先生、超ヤバくない」とかと、評されてしまう。
 目線を合わせないだけでなく、スカートが短くて、太股が見えてたりしたら、もちろん、それも見ちゃいけない。階段を上がる時だって、私は、必ず目線を下に落として、自分の前を歩いている女子生徒の足を見ないように心がけている。こんなことは、基本のマナー。 足とか、二の腕、胸元などには、正直、さして興味はないので(強がりではなく、本音)さて置く。目については、やっぱりちょいちょい、さりげなく見る必要がある。目を見ないと、相手の精神状態の最終判断ができない。
 ルノワールの「桟敷席」の着飾った女性は、間違いなくこっちを見てる。見てはいるが、目線は、微妙に外している。まっすぐ見つめられると、見られている相手には、精神的な負荷がかかる。目線の持って行き方が、明らかに場慣れしている。絵画の制作をしているルノワールが、最終的にこの目線を拵えたわけだが、この絵のモデルであるココロペスさんが、プロのモデルとして、目線の拵え方を心得ていたと判断できる。
 目線が、まっすぐこちらを見ている絵もある。この代表例が、レオナルド・ダ・ヴィンチの描いた「モナリザ」だが、モナリザの微笑は、確かに謎なので、取り敢えず、これもさて置く。ルノワールの作品に限定してみると、たとえば、白い胸の開いた夜会服を着たアンリオ夫人が、その大きな目を見張って、まっすぐこちらを見つめている。よく見ると、鼻が少し曲がっている。正確に言うと、右の鼻孔が小さく、幾分、奇形だと言える。眉も幾分、ゲジゲジ。もう少し抜いてほっそりさせて整えればいいのにと、老婆親切ながら思ってしまう。白い首飾りは、雰囲気はゴージャスだが、印象派風に曖昧に描いているので、細部は判らない。が、とにかくアンリオ夫人は、まっすぐこちらを向いている。
 足立区のA高校に勤めていた時、千代田線、東武線を乗り継いで、荒川を渡っていた。千代田線の町屋で、Iちゃんという部活の女の子が乗り込んで来た。私の目をまっすぐ見て、Iちゃんはマシンガントークで、喋り始める。町屋~北千住間のひと駅の区間だったが、結構、しょっちゅう会ったので、2年間くらいは、マシンガントークを聞いた。小学生の時、相手の目を見て話しなさいと、教えられていたので、まっすぐ私の目を見て、喋っていた。彼女は、まあ、今でいうところの「天然」だが、天然とは言え、まっすぐ目を見て喋れるのは、一種の才能だと感心した。
 アンリオ夫人が、まっすぐこちらを見ているのは、それは彼女が役者だから。役者さんなら、相手の目をまっすぐ見ることなどは、何ごともなく、即座にできなければいけない。
 私自身、一回だけ、庄屋の息子のキャストを、地方劇団で演じたことがある。恋人のお春役は、中学の一個上のM先輩。「あたしの目をまっすぐ見て、喋りなさい」と、M先輩に何度も注意されたが、当時、juvenileからadolescenceに移行しようとしているくらいのうぶな年齢の私は、たとえ劇であっても、先輩の目を見つめることは、できなかった。多分、今も変わらない。六十年近くが経過しても、人間はさして進歩などはしないということの証左のようなものだと思う。
 エルミタージュ美術館にある著名な「サマリー夫人の肖像」も、まっすぐこちらを見ている。アンリオ夫人に較べると、サマリー夫人は、より印象派的な手法で描かれている。クールベのような写実性とは、ほぼほぼ、say-goodbyしつつあると感じる。が、サマリー夫人のブルーの瞳は、やはりすばらしい。目の全体は、ほんの少し甘えたような垂れ目。fantasticなブルーの瞳は、まっすぐこちらを見ている。脣(くちびる)は、よくよく見ると、ほんの心持ち開いている。薬指に指輪をはめた左手で頬杖を突いている。ドレスの青と、ブルーの瞳は、きれいに響き合っている。脣の赤、髪のブロンドが、ブルーの瞳を引き立てている。これこそ、コケテッシュの極致じゃないかという気がする。コケティッシュという言葉を聞いたこともない中学生男子でも、この絵を見せれば、コケティッシュを、一瞬の内に完膚無きまでに理解する。
 ちなみにサマリー夫人も女優。モリエールの「タルテュフ」のドリス役でデビーした時、すでに花形だった。押しも押されもしない、フランス座の大女優。大女優は、相手の目を見つめようと、逸らそうと、自由自在だという気がする。生まれながらの大女優は、やはり存在すると、この絵を見ると、信じられる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?