美#107「木と森、山の表現は、セザンヌが一番、すぐれていると思いますが、水の表現は、モネがNo1だという気がします」

           「アートノート107」

 2019年の秋、上野で開催されたコートールド美術館展で、モネの「アルジャントゥーユの秋」(L'automne A Argenteuil)を見た。この絵は、集英社の「現代美術全集2巻(モネ)」にも収録されていて、高校生の頃から、お馴染みだった。モネが、奥さんのカミーユと息子のジャンと三人で、アルジャントゥーユに引っ越したのは1871年。1871年から1878年まで、モネ一家はアルジャントゥーユで暮らした。
 パリから、アルジャントゥーユに引っ越したのは、家賃が安いから。モネが独身なら、友達の家に居候するなり、木賃宿を渡り歩くなり、誰かと共同のアトリエを借りて、そこで寝泊して、かつかつで凌(しの)いで行くのだろうが、家族で暮らすとなると、みんなが一緒にいて落ち着ける居場所が必要。セーヌ川の河口のルアーブルで育ったモネは、海や川が好きだった。これは、私も同じなので、海や川の傍だからこそ、安心できると考えるモネの気持ちは、理解できる。が、泳げないと、逆に海や川を怖れてしまうのかもしれない。泳ぎを覚えることは、自転車に乗るよりもはるかに簡単。スイミングスクールに、一週間程度通えば、誰でも普通に泳げるようになる(温水プールの市民講座的な講習でも、全然、構わない)。
 モネは、生粋の漁師の末裔とかではないので(モネの父親は、食料品店を営んでいた)、絵に沢山描いているヨットに、自由自在に乗れたとは考えにくいが、手漕ぎボートに乗ることは好きだった。「アルジャントゥーユの秋」も、ボートの中に拵えたアトリエで、描いている。
 モネは、水が好きなので、水の表情の表現も、常に気配りしている。ルノワールは、モネのことを、「水の魔術師」と、賞賛していた。
 こうであるリアルの「水の表情」ではなく、こうあるべき当為の「水の表情」をモネは、自由自在に描いている。晩年、眼はもうほとんど見えなくなっていたが、睡蓮の制作を続けることができたのは、実際には見えてなくても、心の中では見えていたからだろうと想像できる。
 カンバスの左側に、紅葉した樹木の並木を描いている。紅葉は、赤ではなく黄色から茶にかけての色合いで広がっている。その黄葉(こうよう)が、水に映っている。ぱっと見た感じでは、大きな塊の黄葉だが、丁寧に見ると、上半分の本物の黄葉と、下半分の水に映っている部分とをはっきり区別することができる。カンバスの右側にも、高い木があって、その木が、水にシルエットとして映っている。
 中央部分のセーヌ川の対岸には、アルジャントゥーユの街が見えている。1851年、つまりモネが引っ越す20年前まで、アルジャントゥーユは、牧歌的な農村だった。が、1851年にパリ~アルジャントゥーユ間の鉄道が開通し、アルジャントゥーユは、その後、急速に都市化した。休日の行楽地として、パリからやって来る人も多くなった。
 私の世界史の恩師は、四国の山奥の人口千人の小さな村の出身だった。
「最後は、故郷の村に帰って、長閑に隠居生活をされるんですか?」と質問すると
「さすがに、あのちっちゃな村には、もう帰れない」と、仰っていた。私の故郷の漁村も、私が子供の頃は、人口二千人くらい。人口二千人の村でも、パン屋、肉屋、魚屋、本屋、電気屋などは、存在してなかった。過疎の村なので、今では、人口は四分の一くらいになっている。たとえ、昔のままの人口二千人であっても、さすがにそこには帰れないなとは、思ってしまう。
 モネの場合も、そこそこ便利な近代文明と、自然の風物とのバランスが取れていることが、重要だった。ほとんど獣道くらいしかない山奥で、ひたすらスタンドアローンで、絵を描き続けるつもりは毛頭なかった。
「雪のアルジャントゥーユ」という作品が、西洋美術館にある。モネは、雪景色を描くことが好きだった。修業時代、ブーダンの故郷のオンフルールで描いた、雪景色の絵も残っている。水辺や水が好きなモネは、雪も水のバージョン版だと判断している。
 アルジャントゥーユで洪水が起こった時も、チャンスを逃さず、洪水の絵を描いている。純粋な色調で輝く光を捉え、きらきらしている水の反映を、丁寧に描き込んでいる。雨の上がった鈍色の空と、黒々とした木立のシルエットとを、巧みにコラボさせて描いている。 アルジャントゥーユ時代の1874年、第一回印象派展が開催された。この展覧会で、モネは、例の「印象(日の出)」(Impression: Soleil Levant)その他を出品した。モネは、物議をかもし出そうと考えて「印象」を出したわけではない。
 カタログは、ルノワールの弟のエドモンドが拵えていた。モネの他の作品は「村の入り口」「村の出口」「村の朝」など、はなはだ退屈な名前が多かったので、エドモンドが
「単調すぎる」と、不満を漏らしたらしい。そうすると、モネは「じゃあ、印象でいいよ」と、返事をした。実際にルアーブルの実景とは言えないものなので、「印象」と、言ってしまったらしい。美術評論家は、この作品をスルーするだろうと楽観していたが、がっちり食いついて来た。「印象」はモネらのグループを、十把一絡げにディスる、代名詞のようなものになってしまった。
 手元の画集で、「印象」の絵を見てみた。客観的に見て、価値のあるすぐれた作品だとは、さすがに思えない。が、絵画の既成概念を叩き壊す起爆剤として、この絵は、作用したんだろうと想像できる。クールベは、野人だが、「印象」のような、絵なのか、絵でないのか判然としてないような作品は、一枚も描いてない。マネだって、物議はかもしたが、それは、絵画世界における性的なスキャンダルの類のもので、マネは、絵自体は、忠実に描いていて、そこは何の問題もない。
 モネの絵は、「これは絵じゃない」と、批評家達に思わせた。2024年のなうの私の目で見ても、確かに、これは絵じゃないと、言いたくなる。絵でなければ、何なのかと問われたら、つまり「印象」だと、言ってしまいたくなる。
 が、まあそれまでの絵を、一挙にここで叩き壊すという蛮行を、モネはやってのけたわけで、モネが、印象派グループ全体の、言わば切り込み隊長だなと納得できる。 

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