美#102「STEAM人材のAは、アートのことで、アート的な視点を持って、人間にとって、新しい価値を創出するということらしいんですが、絵に描いた餅以上に、曖昧な言葉の文(あや)って感じがします」

            「アートノート102」

 2019年の秋、上野で開催されたコートールド美術館展は、開催者一推しのマネの「フォリー・ベルジェールのバー」とルノワールの「桟敷席」、ゴーギャンの「ネヴァーモア」の三つを重点的に見るつもりで出かけた。が、結果として、一番、強烈に惹(ひ)かれて集中して見たのは、モネの「アンティーブ」だった。この展覧会では、モネの「秋の効果、アルジャントゥーユ」も出展されていて、客観的に見て、アートとしての価値は、こちらの方が、より優れていると推定できるが、自分ごととして見て、この日のNo1は、「アンティーブ」だった。
 何故、「アンティーブ」なのかと言えば、それは、海と対岸の山々、一本の大きな松の三者のバランスが、抜群にすぐれていたからと、一応、もっともらしい理屈を並べることになってしまうが、simpleに言ってしまえば、モネの海にdirectに感情移入できたからということに、きっとなる。もし、10代でアンティーブの海岸に立っていたら、即座にトランクス姿になって、海に飛び込み、対岸までの半分くらいのとこまでは、泳いで行ってしまうような気がする。
 地中海の海と、四国の海は当然違う。「エンドレスサマー」のようなサーフィン映画や、リュックベッソンの「グランブルー」のような、ただ単に海に潜るだけの映画を見ても、世界の海は、全部違っているということは、容易に理解できる。が、そうは言っても、海の普遍性というものは、存在している。海の普遍性を、映画を通して確認できることは、私にとって心地良い経験だと多分言える。
 マネは、17歳の時、海軍の練習船のパイロット見習いとして、ルーアンからリオデジャネイロまで往復して、半年間、船の上で過ごしている。17歳の半年間が、人生を決定してしまったとしても、構わないと思う。ひたすら海と船を描き、海洋画家になることだって、きっと可能だった。が、パリの裕福なブルジョワ市民として、パリ及びパリの文化から、基本、離れることができなかったと、多分、言える。もっとも、港や川に船が停泊している光景は、いくつか描いている。
 マネは、普仏戦争にドガやルノワール、バジールら共に従軍し(バジールは戦死する)終了後、疎開させていた家族に会うためにボルドーに赴く。マネは、ボルドーの港のカフェから眺めた船と港の絵を描いている。馬が樽を運んで来て、桟橋で樽を船に積み込んでいる。ボルドーは、中世の昔から、ボルドーワインの積み出し港として栄えた港町。港に繋留されているのは、ことごとく、すべて帆船。が、帆船の方が、安定したスタイルで、船を表現できる。
 アメリカ編集の画集には、1864年に描かれた南北戦争の海戦の絵が、掲載されている。フランスにしてみると、心情的にも、貿易上の事情からも、南軍の応援をしたかったが、北軍が、いち早く奴隷解放宣言を発してしまったので、フランス革命の精神からしても、北軍を応援せざるを得なくなった。
 何らかの理由で南軍の私掠船(つまり南軍公認の海賊船)が、シェルブール沖まで逃げて来て、北軍のコルヴェット艦カーサージ号が、私掠船を追いかけて来て、大砲を撃って撃沈させているscene。が、これは純粋な戦争画で、画面も暗く、絵画としての価値は、さして高いものではない。
「月光、ブーローニュの港」は、夜の港の風景を描いている。夜だが、月が出ているので、港の海の表面には、月の光が輝いている。月はかなり大きい。月は海から出て来る時は大きく見える。水平線から夜空に上がるに従って、段々、小さくなって行く。あり得ない月の大きさだが、近代の終わりで、現代はもうすぐ目の前に迫って来ているし、これくらいのデフォルメは、許されるんだろうと想像できる。マネは、戸外の夜景をほとんど描いてない。この絵は、夜の海も好きだった、マネの唯一の例外だろうと想像できる。
 マネは、ヴェネティアの運河と、ゴンドラの絵も描いている。ドゥカーレ宮殿やサンマルコ寺院のような、解り易いテーマの風景画は描いてない(そもそも、マネは建物だけの絵を描いたりはしない)。ヴェネティアの運河の絵は、青が展開している。外光の中では、何らかの色が展開する。それは、ゴッホの麦畑の黄色の展開であったり、モネのオレンジの夕照だったり、セザンヌの水の青の震えだったりする。ところどころに立てられている標識の柱は、青と白のだんだらで、塗り分けてある。ちなみに、ゴンドラと船頭のチョッキは、黒。印象派の中で、マネとルネワールは、黒を手放さなかった。
 印象派のグループの中では、マネが最年長で(ドガはマネの二つ下)もっともお金持ちで気前も良かった。当時、食うや食わずで、かつかつの生活をしていたモネの所に、差し入れをもって出かけたりしていた。ちなみに、マネは、モネの才能を高く評価していたが、ルノワールの作品は、多分、認めてなかった。マネは、生粋のブルジョワで、ブルジョワの人たちの肖像や生活ぶりを描くのは、ごく自然な行為だった。下層階級出身のルノワールが、パリのブルジョワ世界を描くことには、しっくり来てなかったのかもしれない。
 マネは、アルジャントゥーユに出かけて、「ボートのアトリエで描くモネ」という作品を制作している。経済的に困窮し、時にはマネの援助も受けていたモネは、中古の船を改造して、アトリエとして使っていた。モネは、奥さんのカミュと二人で船に乗り込み、アルジャントゥーユ付近の景色を描いている。
 船の上のような、横揺れ、縦揺れがしょっちゅう(というか始終)起こっている場所で、線を引いたり、絵具を塗ったりできるのかと疑問を感じるが、外光派は、光そのものが揺れているんだから、絵具をつけた筆が、少々、揺れても、no problemなのかもしれない。
 カンカン帽を被った、男が、ゆったりと艪(ろ)を漕ぎ、女性は帽子とヴェールを被って、船にゆったりと腰をかけ、二人で船遊びをしている絵も、マネは描いている(場所はやはりアルジャントゥーユ)。私は、平田舟、伝馬船、ボート、筏などに子供の頃、しょっちゅう乗っていたが(無論、漕ぐこともできる)女の子を載せるという発想をしたことは一度もなかった。大人たちが乗る船にだって、女性が乗っているのを見たことはなかった。マネのアルジャントゥーユの絵は、明治5、6年に描かれている。日本は、フランスに較べると、男女の世界が、ざっと150年くらいは遅れているのかもしれない。

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